哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第2章を特別公開します。


 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。 

 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?

悪を哲学すると「3つの行為」に行きつく。

「悪いこと」とは何か?

 ※前回記事『正義を哲学すると「3つ」に分類できる。』の続きです。

 今まで考えたこともなかったが、世界レベルで「自国の正義を主張する国」を大きく分ければ、たしかに3色で色分けができてしまう。

「さて。では、その3種類……『平等、自由、宗教』。これらの判断基準によってなされる行為が、なぜ『正義』だと言えるのか。それは、それぞれの逆を考えてみればわかりやすいだろう。たとえば、平等の逆、すなわち、不平等。これは普通に考えて悪いことだと言えるはずだ」

 それはまあ、そうだろうな。みんなが同じ仕事をして、ひとり1個のリンゴを報酬としてもらっているときに、何の理由もなく―もしくは暴力や生まれの差などによって―ある人だけが10個のリンゴをもらっていたら、それはどう考えてもおかしいわけで、善い悪いで言えば間違いなく「悪いこと」だろう。

「もしもキミたちが、『特定の誰かが特権的に利益を得ている』もしくは『差別的に損害をこうむっている』といった不平等な状況を『悪いこと』だと思うなら……、当然、それを改善しようとする行為、すなわち平等を目指す行為は『正義』だということになる」

 あー、そういうことか。「正義の反対は悪」なのだから、ある行為が「正義」かどうかを確かめたければ、その反対の行為が「悪」かどうかを問いかけてみればいい。で、その理屈で言えば、実際僕たちは「不平等や差別」を悪だと思っているわけだから、その反対である「平等」は僕たちにとって正義ということになるわけか。

「では同じように、自由の逆……、不自由についても考えてみよう。不自由とは、つまり強制や拘束や支配などによって、自由に生きる権利が奪われた状態を指すわけだが、『誰かを不自由にする』つまり『人の自由を奪う』なんてまさに典型的な悪の行為だと言えるだろう」

 それは完全に同意だ。ヒーローものに出てくる悪の組織が、なぜ悪なのかと言えば、それは彼らが世界を征服したり幼稚園バスをジャックしたりすることが、人々の自由を奪うことにつながっているからだ。

 結局、彼らはその一点のみで「悪」だと評されているわけであり、もし彼らが無人島で同じことをやったとしたら、誰も彼らを「悪」とは呼ばないだろう。