哲学者ヒュームの主張とは?

「だが、それも仕方ないかもしれない。なにせ説明ができないのだからね」
 それはよくわかる。理屈として説明できないのだから、どうしても押しつけたようにならざるを得ない。

 でも、それよりも。はからずも、先生が倫理をフォローしている形になってしまっていることに僕は動揺する。

 結果、思いがけず口走る。
「でも、説明する努力は必要ではないでしょうか? 何も説明しようとせず、これが正しいと言いきるのは問題があると思います」

 僕の強い口調に、先生は、ふむと言って自分の頭を撫で回し、少し考えてから言った。

「正義くんの言うことはもっともだ。だが、それでもやはり、『仕方がない』ということになるのではないだろうか。説明ができないものは説明ができない……」

 そう言って先生は、黒板にひとつのキーワードを書き、読み上げた。
「ヒュームの法則」

 そして前を向き直し、説明を続ける。
「別名、『ヒュームのギロチン』とも呼ばれる哲学用語であるが、これはどんなに言葉を組み合わせても『すべき』という言葉を論理的に導き出すことはできないという、哲学者ヒュームの主張だ。

 このことはよくよく考えてみればわかることだが……、我々は、『AはBである』といった形式の文―たとえば、「哺乳類は肺呼吸である」などの文―を複数用意し、それらを論理的に組み合わせることで結論となる文―たとえば、『イルカは哺乳類である』などの文―を導き出すことができる。しかし、逆に言えば、できることはそれだけ。『AはBである』を、どんなに並べて、どう組み合わせても、『AはBをすべきである』という形式の文を導き出すことはできない」

「でも、その『AはBをすべきである』という文自体は、枠の内側に存在するんですよね?」

「そうだ、存在する。だが、その『すべき』という文に、論理的な手続きで『正しさ』を与えることは、枠の内側にある材料だけでは絶対に実現できない。ヒュームは、そのことを証明したわけだが、言われてみれば当たり前のことだろう。『である』を、どんなに積み重ねても『すべき』が出てくるわけがない……至極当然の話だ」

 いや、それはたしかにその通りかもしれない。けど、それを言ってしまったら、功利主義に始まる、正義についての今までの議論や授業が全部無駄だったということになるじゃないか。

 それぞれが傷つきながらも、考えを深めてきた「正義」。それを全否定された気分になり、
軽く目眩を覚える。僕は、枠の外側に描かれた『正義』の文字に視線を向けた。

「でも、理屈や論理に頼らないなら、『宗教の正義』の人は、その『正義』をどうやって知るのですか?」