「正義を観る」とは、どういうことか?

「たしかに、そこは疑問に思うところだろう。正義が説明不可能なものなら、それをどうやって知るのか。答えはシンプルだ。直接そのまま、枠の外にある正義を『観れば』いい。そして、このような正義の捉え方を『直観主義』と呼ぶ」

 先生は、黒板に今言った用語を書き写した。
「直観主義の『直観』……これはこのように『直(ただちに)観(み)る』という漢字を書く。つまり、思考という段階を踏まず、正義という概念を直接的に観て取る、という意味だ」

 直ちに観る。直ちに観る?
 ダメだ、全然ピンとこない。
「あの……直ちに観るがよくわからないんですけど」

「正義くん」
 と僕の名前を呼んだのは倫理だった。

「正義くん、このペンは何色に見えますか?」
 そう言って、目の前にシャーペンを突きつける。
「え、赤だけど」

「正義くん、人殺しは善いことですか?」
「いや、悪いことでしょ」

 質問の意図を考える間もなく、僕は反射的に答えていた。
「それです」

 倫理は、ミユウさんの一件のときのような、嬉しそうな笑顔を見せた。
「それが、『直ちに観る』ということです」

 いやいやいや。そんなふうに、色とか味とか、知覚する意味での『直ちに観る』と、道徳的な問題を常識で『すぐに判断する』は全然違うだろ。だいたい、じゃあ、トロッコ問題のような難しいケースでは、どう直ちに観ればいいんだよ。

「なるほど。正義くんとしては不満はあるかもしれないが、直観主義における、直観の定義は、おおよそ副会長が例示した通りだ。良心―人間が人間であるならば持っているであろう道徳観、そういう何かが打算なしに、直接、瞬間的に感じ取った正しさ……それが直観主義における正義だ」

 先生は補足する。しかし、それでも僕は納得がいかなかった。

「でも、その感じ取った正しさが、思い込みじゃないという保証はないと思いますが……。そもそも、本当に枠の外……理屈の外側に『正義』なんてものがあるのでしょうか?」

 そうだ、最近すっかり忘れていたが、僕は、もともと正義なんか存在しないという正義懐疑主義者だったのだ。

 近頃、先生の授業を聞いてるうちに、少しずつ昔のように正義への興味を取り戻し、今ではこうして授業でも積極的に発言するようになってしまったが、本来、僕はそんなキャラではなかったはずなのだ。

「………………」
 僕の質問に、倫理は信じられないという顔をした。まるで宗教家に向かって「神なんていないんじゃないの?」と問いかけたときのような反応だった。

「正義くん、素晴らしい指摘だ!」
 一方、なぜか先生は突然興奮し、賞賛の言葉を浴びせかける。

「まさに、そこだ! そこがすべての肝! 思想史、西洋哲学史の最大のテーマ、人類はその問題について2500年もの間、ずっと考え続けてきたと言える!」

 僕としては、普通の素朴な、当たり前の疑問を口にしただけなので、その大仰な物言いに戸惑うしかなかったが、そんな僕を放置して先生は後ろを振り向き、黒板に書かれているものをすべて消したあと、真っ直ぐな縦線を引いた。そして、縦線を中心にして、右側に「相対主義」、左側に「絶対主義」と書く。

「今から哲学史の授業を始めたいと思う」

次回に続く