何が「良い」かは試さないとわからない

 筆者がなぜ、17世紀の哲学者の指摘を、ここでわざわざ紹介しているかというと、今の私たちにとって、このスピノザの主張があらためて重要だと思われるからです。

 私たちは極めて変化の激しい時代に生きており、私たちを取り巻く事物と私たち個人の関係は、常に新しいものに取って代わられていくことになります。このような時代にあって、何が「良い」のか「悪い」のかを、世間一般の判断に基づいて同定することはできません。

 私たちが、自分の人生を賢人となって楽しむためには、つまるところ、さまざまなものを試し、どのような事物が自分のコナトゥスを高めるか、あるいは毀損するかを経験的に知っていくことが必要になります。

 この「試す」というのは、スピノザの哲学において極めて重要なポイントです。私たち各々のコナトゥスはユニークなものであり、だからこそ私たちは、さまざまなことを試した上で、それが自分のコナトゥスにどのように作用するかを内省し、自分なりの「良い」「悪い」という判断軸を作っていくことが必要だと、スピノザは説いたのです。

 これに対置される考え方が、姿形や立場によって、その人の「良い」「悪い」を確定してしまうという考え方です。「本来の自分であろうとする力=コナトゥス」という本質に対して、自分の姿形や立場などの形相をギリシア語ではエイドスと呼びます。

 たとえば男性・女性というのは一つのエイドスですが、ではだからといって「あなたは女だから、これが好きなはずだ」「あなたは男だから、こうするべきだ」というのは、コナトゥスを無視した押し付けになってしまいます。

 そのように押し付けられたものが、本当にその人のコナトゥスを高める「良い」ものであるかどうかはわかりません。

私たちは自分の姿形や立場といったエイドスに基づいて「私はこうするべきだ」「私はこうしなければならない」と考えてしまいがちですが、このようなエイドスに基づいた自己認識は往々にして個人のコナトゥスを毀損し、その人がその人らしく生きる力を阻害する要因となっています。

 このような変化が激しく、「良い・悪い」の観念が暴力的に他者に押し付けられる時代だからこそ、私たちは自分のコナトゥスを高める事物をさまざまに試していくことが必要になります。