日本政府により羽田の再国際化が始まったのが10年。そして14年春、発着枠の増加に伴い、それまで限定的だった昼間時間帯の国際線が増え、欧州や東南アジア路線が一気に拡大した。

 ところが、昼間時間帯の米国路線だけは、このタイミングで就航しなかった。米国の航空政策に強い影響力を持つデルタが、羽田の中途半端な開放に異を唱え続けたためだ。

 デルタの前身である旧ノースウエスト航空は日本航空(JAL)よりも早く、1947年から米国~東京(羽田)に就航していた。が、78年の成田開港に伴い日本政府が成田を首都圏の国際空港に位置付けたため、成田へベースを移し、米国~アジア路線のハブ(給油や乗り継ぎ地点)にしてきた。

 空港には豪華なラウンジを設置し、近隣には大型機内食工場やクルー用のホテルを所有するなど、成田には多大な投資をしてきた。

 一方で16年以降、改めて羽田の顧客利便性を感じるようになる。「成田に比べて羽田は都心から圧倒的に近い。地の利の良さがよみがえったことでお客さまにも高く評価された」(シアー氏)

 経営効率的に成田と羽田、双方に飛行機と人員を割くのはコストがかかって仕方がない。どちらかに集約する判断を迫られ、国際化にかじを切った羽田を選択した。デルタにとって、もはや成田はアジアのハブではなくなっていた。

 10年に経営破綻したJALに対して支援を表明するも、JALは航空連合ワンワールドに残留してアメリカン航空との提携関係を継続。15年には経営難に陥ったスカイマークのスポンサーとして名乗り出たが、ANAに競り負けた。

 08年にはノースウエストとデルタが合併。以降、中国や韓国と距離を縮めていった。上海を拠点にする中国東方航空に出資したほか、同じ航空連合スカイチームの大韓航空と18年、共同事業をスタートさせた。

 シアー氏はデルタのアジアにおける現在のハブ空港について「パートナーもいることから、上海と北京とソウルだと捉えている」と明言する。

 日本の航空政策の変遷、ノースウエストとデルタの合併によるアジア戦略の転換、加えて航空機の技術革新により中型機の航続距離が延びたことも影響し、成田はハブではなくなったのである。

 とはいえ、デルタのアジア~米国間輸送量(1日片道当たりの座席数)は、直近で東京が1900強で断トツ。2位のソウル(1200弱)、3位の上海(1100強)を大きく引き離す。

 そして「羽田シフトは日本人客にとってメリットが多い」というのがデルタの主張だ。羽田に路線を集約することで効率を高め、機内食をはじめとしたサービス向上に集中投資する。チェックインカウンターを増やし、羽田になかった自社ラウンジを設置予定だ。

 羽田シフト以降、日本の営業部隊が扱う航空券は以前より増えるので、ビジネス、レジャー客問わず魅力的な価格設定で販売を強化することが、競合ANAとJALに対する最大の戦略だと説く。

 日系大手2社は早ければ11月中旬にも羽田の就航計画を発表する。40年ぶりに羽田ベースに戻ったデルタの逆襲も始まる。