大人気のAI通訳機「ポケトーク」を開発・販売するソースネクストの松田憲幸社長が翻訳機のプロジェクトを立ち上げた18年前、それは非現実的な目標であり、社内でも反対を受けました。しかも、ソースネクストでは、語学学習がいらなくなる翻訳機と、語学を学ぶための学習ソフトの販売を両方行ってきました。いかなる理屈で組織が納得し、両立できているのでしょうか? また、なぜAI通訳機「ポケトーク」はスマートフォンのアプリでなく、専用機として開発したのか? ソースネクスト松田社長に聞いていきます。

 「ポケトーク」に結実した翻訳機のプロジェクト「バベルの塔プロジェクト」を立ち上げた18年前から時を経て、ビッグデータ、ディープラーニングの時代になり、びっくりするような翻訳エンジン、聞き取りエンジンの技術も出てきました。日本語を話して音声入力すれば、さまざまな言語にかなりの精度で翻訳してくれます。これなら、本格的な翻訳機が作れるのではないか、と思い始めました。そして、同じぐらいのタイミングで、ある出来事がありました。

 ソースネクストが「ロゼッタストーン」の日本法人を買収したのです。

 これこそ、まさに語学学習のためのプログラムでした。世界的なブランドを日本で手がけるにあたり、私は語学学習ビジネスを手がける社内のミッションを考え、「言葉の壁をなくす」と定めました。

 考えてみれば、外国語学習ソフトを売ると同時に、語学の勉強を不要にする翻訳機を売る、というのは一見相反しています。おそらく語学教育ソフトを売りながら、翻訳機も売っている会社は、世界でソースネクストだけではないでしょうか。

 しかし、「言葉の壁をなくす」というミッションに沿って考えれば、両方とも極めて合理的で、両方とも正しいのです。

 このミッションからすれば、言語を習得できるのであれば、必ずしも勉強でなくていい、という主旨です。翻訳機も、言葉の壁を乗り越える方策の一つだからです。そして、翻訳機を出したから「ロゼッタストーン」が売れなくなるとか、「ロゼッタストーン」が翻訳機のビジネスの邪魔をするとか、そういうことは考える必要がありません。ミッションのおかげで、社内がブレることはありませんでした。このミッションを作って本当に良かったと思いますし、とても気に入っています。

なぜAI通訳機ポケトークは、スマホアプリでなく専用端末にこだわったのか?学習用のニーズも高いポケトーク

 そして実は、翻訳機自体が最高の学習デバイスであると気づくことになります。2号機以降の「ポケトーク」の場合、翻訳した音声が出るのと同時に、翻訳テキストが原文テキストとともにディスプレイに表示されます。これを、誰かに伝えるために使うのではなく、自分の勉強のために利用する需要が想像以上に大きかったのです。また、ポケトークには翻訳履歴が残るので、それを押せば何度でもテキストと音声が出てきますから、フレーズの確認やリスニングの練習に使うことができます。さらに、自分で英語を吹き込んで、正しく認識されるかをスピーキングの練習に使うこともできるのです。あるいは、表示されるテキストは辞書代わりにもなります。

 しかもポケトークの場合、翻訳できる言語は英語だけではありません。中国語も、イタリア語も、フランス語も、74言語の語学学習に使えます。自分が言いたい内容が、こんなに簡単にフルセンテンス(完全な文章)でわかるツールはほかにない、という評価もいただいています。

 「ポケトーク」の最大の特徴は、複雑な文章でも翻訳できることです。

 まとまった文章をデバイスに向かって話しかけて、正しい翻訳文が戻ってくるようなデバイスは過去にありませんでした。「○○って、英語で何て言えばいいの?」という疑問には、今まではバイリンガルの人に聞いて教えてもらうしか術がなかったのです。

 私自身、英語がまったくできない状態から勉強をスタートしてみて、ネイティブでない人が英語を話すステップは基本的に二つある、と思っています。第一に、数多くの構文やフレーズを覚えること。第二に、覚えた構文に単語を適宜当てはめていくことです。

 ただ、これには手間もかかります。構文や単語を覚えることのハードルもありますし、言いたいことについて英語のどの構文やフレーズを使えばよいかをとっさに考え、さらには単語を置き換える必要があります。

 私が英会話学校に通っていたころは、「今日はこれを話すぞ」と決めて、自分で作った英文を丸暗記して話していました。それが外国人の先生に通じると「やった!通じた」と嬉しくなります。
今なら、自分が話したいことを前もって「ポケトーク」に向かって話すだけで、手軽にその喜びを味わうことができます。

 たとえば、「大阪に来たのは3カ月ぶりです」と言いたいとき、「~ぶり」と表現する英語がすぐには出てきづらいのではないでしょうか。「ポケトーク」なら「I came to Osaka for the first time in three months.」と瞬時に音声とテキストが返ってきます。

「ああ、英語ではこう言えばいいんだ」とわかります。東京に来たのが久しぶりであればOsakaをTokyoに替えるだけでいいし、5年ぶりならthree monthsをfive yearsに替えればいい。こうした英会話の成功体験を作るには「ポケトーク」は最高のデバイスだと思います。

 2017年4月、ロゼッタストーンの日本法人の買収について、アメリカ本社のCEOと一緒に記者発表会に臨んだときのことです。「言葉の壁をなくす」ために、「ロゼッタストーン」を4980円という、かつての5分の1以下の価格で販売する、というのが発表主旨でした。

 しかし、会見のインパクトをいっそう大きくするには、「言葉の壁をなくす」というミッションに従って、勉強することなく英語など外国語が自由に話せるようになる翻訳機も一緒に発表してしまったほうがよいのではないか、と考えました。そこで、まだ開発が完全な見通しが立たない段階だったにもかかわらず、翻訳機の構想をパワーポイントで作って紹介したのです。

 結果的に、記者発表会の場は翻訳機の話で持ちきりになってしまいました。いつ出すのか、どんなものなのか、どのくらいの大きさなのか……。矢継ぎ早に飛んでくる翻訳機に関する質問になんとか答えながら、これは本当に翻訳機を出さないといけない、と改めて思いました。需要は間違いなくある、という大きな手応えをこのときにつかんだのでした。

アプリではなく専用機にこだわった理由

 その頃、すでに翻訳機を作っている会社はありました。また、グーグルをはじめ翻訳エンジンの提携先もたくさんありました。それらを取りまとめてプロトタイプを作っていくのですが、ソースネクストが有していた大きな強み──それは、すでに発売していた「スマート留守電」の経験です。留守電の内容をテキスト化してメールやショートメッセージサービス(SMS)やLINE、フェイスブックメッセンジャーで送信し、留守番電話サービスに電話をかけなくても、伝言内容が確認できる、アプリを使ったサービスです。

 「スマート留守電」でわかったのは、翻訳の精度を左右する音声の聞き取り能力を上げるには、入力音声の音質が重要だ、ということでした。もっと具体的にいえば、スマートフォンのマイクでは騒がしい場所では十分に聞き取れず、結果として適切に翻訳されません。もちろん、普通の用途であれば、そのレベル以上にマイクを進化させる必要はないのですが、翻訳の用途には十分とはいえないのです。
専用機をわざわざ作らなくても、スマートフォンのアプリで十分じゃないか、という声が今も聞こえてきます。ただし、このマイクの精度に難がある限り、スマートフォンではうまくいかないことに気づいていました。

 同じ翻訳エンジンなのに、ポケトークとスマートフォンで精度が違う、といわれるのは、マイクが違うからです。騒がしい場所でも、専用機ならクリアに言葉を聞き取ることができます。

 一般的にスマートフォンの進化について要望が多いのは、カメラの機能や画質の向上です。だから、カメラやスクリーンの進化はものすごく速い。逆に、マイクは現状でも電話をするには困らないし、スピーカーにしても、本当に音楽好きの人はブルートゥースでヘッドフォン等を通じて聞きますので、進化させる必要がありません。

 このように、スマートフォンにはマイクやスピーカーを進化させるモチベーションはほとんどないのです。そこに期待して買う人が少ないのも事実でしょう。しかし、AI通訳機にとってはマイクやスピーカーが極めて重要です。

 そうした小さな工夫の積み重ねが使い勝手の良さにつながり、スマートフォンとの差別化にもなるでしょう。スマートフォンが進化しないところに目をつけていくことが、専用の翻訳機としての魅力につながっていきます。そこは、最初からこだわり抜いたところでした。

 専用機にしたヒントは、アマゾンのキンドルから得ました。同じように「専用機」としてのこだわりを持って作られていて、発売から10年以上になりますが、徹底して読むデバイスとして進化しています。

 キンドルは、とにかく「読む」ことに特化した仕様になっています。目は疲れないし、明るいところでも暗いところでも読めます。辞書機能でわからない単語の意味を調べたり、マーカーやメモの機能も便利に使えて、電池の持ちもいい。キンドルにしかできない読書体験を作っています。これこそが、ポケトークの見本でした。

 実のところ、スマートフォンを翻訳機として使うのは、現実的ではないと思っています。そもそもプライバシーの塊であるスマートフォンを、人に見せたり渡したりするのは、かなり抵抗があるのではないでしょうか。だから、ポケトークはスマートフォンとは別に翻訳専用機として進化させていくべきだ、と考えました。(つづく。前回はこちら。もっと詳しくすぐに知りたい方は、ソースネクスト松田社長の著書『売れる力』をぜひご覧ください!)