生活保護「不正」受給問題は何を生み出したのか
Kが所属するヤミ金業者は、貸し付けたカネを確実に回収するために生活保護の受給斡旋を始めた。実働部隊は前述の講習担当者を含めて3名ほどで、年齢はみな30歳前後。生活保護を受給させながら20名ほどの客の管理をしているという。
生活保護「不正」受給問題が世を騒がせたが、すでに過去のものとなった感を少なからぬ人が抱いているだろう。しかし、言うまでもなく、ことの根本にたたずむ問題そのものは何も変わっていない。変化があったとすれば、生活保護にまといつく「社会の脱落者」としてのスティグマ(負の烙印)がより強まったということだ。
生活保護「不正」受給に関する議論を大きく整理すれば、次のように言えるだろう。
一方には、「家族なんだからカネを融通しようと思えばできるだろう」という「モラルハザード」「フリーライダー」論によった批判。そして他方には、弱者を攻撃する議論に対して「全員が家族の扶助に頼るべきなどと言ったら、本来保護されるべき人が生活保護をもらえなくなり、弱者をより顕著な弱者とさせてしまう」あるいは「家族に頼ることを前提とした社会福祉は限界だ、もう古い」という批判。
いずれも、それなりの「正当性」を持った見解である。フリーライダーの存在は解決に向かうべきであり、当然ながら、「弱者のさらなる弱者化」も問題だ。そして、両者は互いの正当性を信じているが故に議論がかみ合うことなく、互いを否定し合うなかで問題はいつの間にかうやむやになっていく。
非就業者が家事を手伝いながら就業する家族の収入で生活する、あるいは、介護は家族が担うというような「家族による福祉」の時代をもはやこれからの前提とすることはできない。「家族による福祉」から解き放たれた個人を社会的に支える「社会による福祉」の構築が望まれるが、合意可能なこれという具体策をなかなか見出すことのできない状況が続いている。
「純粋な弱者」を前提とした論争の先に隠された事実
しかし、ここで考えるべきなのは、弱者がみな聖人君子、「純粋な弱者」である必然性などないということだ。
「弱者とされ社会制度の中で保護される者は、制度設計上、本来想定されている『純粋な弱者』であるべきだ」と批判するにせよ、あるいは「たしかに『悪い弱者』もいるかもしれないがそういった人はごく一部であり、一部を強調することによって『純粋な弱者』が追い込まれるのは好ましくない」と訴えるにせよ、そこには聖人君子たる「純粋な弱者」が無意識の前提として念頭に置かれてはいなかっただろうか。
「純粋な弱者」を想定することによって成立する「相対的強者」による代理論争は、仮に盛り上がりを見せたとしても、それによって置いていかれてしまうものがある。それはM、だけではもちろんないが、「グレーな弱者」に他ならない。
おそらく、Mは働こうと思えば働けるだろう。今でも、酒を飲み、毎日時間を持て余して自由気ままな生活を送っている。もちろん、生活保護受給者のすべてが、Mのような人間であるという偏ったイメージづけをすることは避けなければならない。働く意欲に溢れていても働けるだけの体力がなく、飢えに苦しむ人もいるのだから。
しかしながら(Mの場合は限りなく黒に近い状態であるにせよ)社会的に「弱者」とされる多くの人々が「白」、つまり「純粋な弱者」ではない「グレー」な存在であることにも目を向けなければならない。
少しであれば働けるのではないか、楽をしているのではないか、周りに助けてくれる人がいるんじゃないか……。「努力が足りない」と言い始めれば、ほんの些細なことを理由に疑問を呈することができてしまう。そして、それは一定程度の正当性を持つ議論だろう。