ペスト以来の統治の課題
超法規的措置は最小限に

 フランスの哲学者フーコー(1926-84年)は、近代の臨床医学・公衆衛生と近代的な国家権力が相互に依存し合いながら発展してきた過程を研究したことで知られる。

 彼はペストに対する対策が、近代的な権力による統治の様式のモデルになったと指摘している。

 前近代の権力の感染病対策は、ハンセン病患者の場合に典型的に見られるように、患者をけがれた者とみなして、共同体から遠く離れた所に隔離することを基本としていた。

 だが、近代の初期権力のペスト対策では、感染地域と非感染地域を厳格に線引きしたうえで、前者の住民を境界線の中に閉じこめ、そこから移動させないようにすることを基本にする。

 そのうえで、当該地域の人口構成、平均的な家族構成、家屋の構造など、住民に関する基本的なデータを確認し、医師や官僚を通じて、各人の健康状態を日々細かくチェックしていく。

 そうやって人々の生を、権力の管理下に組み込んでいくのだ。

 この手法は、平時でも、健康な生活の保障という名目で、市民生活全般に拡張できることになる。

「感染病が絶対流行しない社会」というのは理想ではあるが、それを文字通り実現しようとしたら、SFによくあるような、人々の健康をAIなどによって一元的管理する「ディストピア」になってしまう。

 こうしたことを考えれば、新型感染症の発生は(戦争や内乱ほど確実に人が死ぬわけではないが)非常事態なので、政府や自治体が判断しやすいよう、柔軟な法制度にしておく必要があるが、同時に、どのような専門家に意見を聞くのか、打った手が思わぬ副作用をもたらした場合、どう原状回復するかといったことを考えておかねばならない。

 超法規的措置の「超」はなるべく小さくしなければならない。

 国家権力が自分の都合で“非常事態”を宣言し、その適用範囲を野放図に拡大できないよう、その条件を限定する基本的な法的枠組み、安保・非常事態法制に相当するものを、公衆衛生の部門でも整備しなければならない。

 マスコミも一般国民も、厳密な手続きをスキップして、隔離とか閉鎖、日常的行動の監視のような強権を発動するのが“良い政府”であるかのように思い込まないよう、イメージトレーニングしておく必要がある。

 一部の人を犠牲にする形で問題をさっさと“解決”してくれる権力は、民主主義とは相容れない。そのジレンマを認識することが肝心だ。

(金沢大教授 仲正昌樹)