「自分の意見を変えないリーダー」は
強いのではなく、非科学的なだけ
その一方で、社会的責務や精神的不安に縛られて、本来探すべき情報を見つけられない人もいる。思い込みも邪魔をするし、人を惑わす余計な情報も多い。自分の先入観を肯定してくれる情報源にしか目を向けない人もいる。非科学的なメディアが氾濫している現代においては、誰にも阻害されず自由にあらゆるメディアを利用できる人であっても、価値ある情報を見つけ出すのは容易ではない。
だが、こういう状況でもできることはある。科学的な生活において最も重要なのは、自分の考えと矛盾する情報に出合ったとき、その情報に基づいて自分の考えを更新することだ。何も変えないという姿勢は良くない。
ところが、何があっても頑なに考えを変えない人が称賛されることは珍しくない。頑固に自分の意見に固執するリーダーを「強いリーダー」であると褒め称える風潮もある。
偉大な物理学者、リチャード・ファインマンは、「その道の権威を疑うこと」を科学の基礎だとした。しかし、実際のところこの社会には、群集心理や、権威への盲信が蔓延している。科学的推論の基本を成すのはあくまで論理のはずなのに、希望的観測や不合理な恐怖によって認識を歪められ、誤った判断を下してしまう人が実に多い。
学校で科学教育が
できていないのはなぜか
では、科学的な態度を多くの人に広めるにはどうすればいいのだろうか。すぐに思いつくのは教育の改善だ。国によっては、たとえどのようなものでも、教育を大半の国民に受けさせるだけで大きな改善に結びつくだろう(たとえば、パキスタンでは、読み書きのできる国民が全体の半分以下しかいない)。
教育を受ける人が増えれば、原理主義は力を失い、寛容性が高まる。それは暴力を抑制し、戦争防止にもつながるだろう。女性の権利を拡張すれば、貧困を減らし、人口爆発を食い止められる。
もちろん、すでに国民のすべてが教育を受けている国でも大きな改善は可能だ。学校というところはどうしても、博物館のようになりがちだ。未来を形づくるよりも、過去の振り返りに熱心になるところがある。そして授業のカリキュラムはさまざまな人たちの意見を取り入れようとするあまり、焦点のぼやけた内容の薄いものになりがちだ。
そうではなく、本当に今の時代に必要なことを教えるべきだろう。たとえば、人間関係の構築、健康維持、避妊、時間管理、批判的思考、プロパガンダの見分け方などを教えれば、間違いなく有用なはずである。
若い人にとっては、外国語とタイピングの習得も有用だろう。今では割り算の筆算の方法や筆記体を学ぶよりも大事だ。インターネット時代になり、私のように教室で授業をする教師の役割も変わってきたと感じる。
教師が単に一方的に情報を提供する存在なのだとしたら、もはや必要とはされていない。情報は生徒が自分の力でダウンロードできるからだ。教師の役割は、科学的な生活を送るよう生徒を促すこと、そして好奇心を刺激し、学ぶ意欲を高めることだ。
どうすれば科学的な生き方が人々に根づくだろうか。どうすれば誰もが科学的な思考をする社会になるだろうか。それはとても重要な問いだ。
心ある人々は、それこそ私が生まれるずっと前から、この問いについて考え、議論をしてきた。教育はどうすれば改善できるかを長らく考えてきたわけだ。にもかかわらず、アメリカを含めた多くの国で事態は良くなっていない。むしろ悪くなっていると言っても反対する人は少ないに違いない。人々が科学的思考、態度を身につけるような教育はできていないのである。