社会派ブロガー・ちきりんさんの著書『マーケット感覚を身につけよう』が、発売から5年経った今年、再ブレイクして10万部を突破した。「感染症が流行れば、ビデオ通話システムがANAのライバルになる」といった、今の時代を予見するような記述が多く見られることで、SNSでも話題になっている。
そもそも「マーケット感覚」とはいったい何なのか?「マーケティング」とは何が違うのか? 特別な才能でもセンスでもないという「マーケット感覚」を鍛えるにはどうすればいいのか? ご本人に話を聞いた。(取材・構成/樺山美夏、写真/疋田千里)
大切なのは、行動の背景にある
「インセンティブ・システム」を読み解くこと
――「マーケット感覚」という言葉だけ見ると、「何か特別なセンスや感性のこと?」と勘違いする人もいそうです。ちきりんさんが考える「マーケット感覚」の定義について、まず教えてください。
ちきりん マーケットと言うと株価など金融市場を思い浮かべる人が多いのですが、私たちの生活のあらゆる面がマーケット、すなわち、市場での取引で成り立っています。ランチひとつ食べるのも、進学する学校を選ぶのも、もちろん家を借りたり買ったりするのも市場での取引ですよね。
そういった生活のあらゆる面に存在する市場では、つねに買い手と売り手の間で「価値」の交換がなされています。マーケット感覚とは、その価値を理解する能力のことです。
関西出身。バブル期に証券会社に就職。その後、米国での大学院留学、外資系企業勤務を経て2011年から文筆活動に専念。2005年開設の社会派ブログ「Chikirinの日記」は、日本有数のアクセスと読者数を誇る。シリーズ累計34万部のベストセラー『自分のアタマで考えよう』『マーケット感覚を身につけよう』『自分の時間を取り戻そう』ダイヤモンド社)のほか、『「自分メディア」はこう作る!』(文藝春秋)など著書多数。
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――「マーケティング」と「マーケット感覚」を混同している人もいると思いますが、2つの違いは何でしょうか?
ちきりん マーケティングというのは、「4P」とか「AIDMA」といったフレームワークやポジショニングマップの理解、あとは特定のプロモーション策や値下げでどれくらい購買数が増えるのかといった統計的な分析と、それに基づく具体的な施策立案を包括する学問分野で、とても科学的、分析的なものです。
マーケット感覚とはそれより遥かにプリミティブ(原始的)な概念で、ひとりひとりの人間の行動の源を理解するものです。本書ではそれを「インセンティブ・システム」と読んでいるわけですが、人間の行動の裏には、経済的要素だけではとても説明できない複雑な理由があります。
通常はみな自分の行動でさえ、どんな動機でそういう行動を選んだのか意識していません。その、本人も意識していない「インセンティブ・システム」を理解せずしてマーケティングやプロモーション施策を打っても、効果は一過性で終わってしまいます。
マーケティング分野でよく使われる「インサイト」という言葉は「インセンティブ・システム」と近いように思えますが、マーケット感覚はインセンティブ・システム、すなわち人々の行動の裏にある動機と、それぞれの人が何にどんな価値を感じているかという点に、より深くフォーカスした概念なのでしょう。
世の中にはマーケティングについて書かれた本はたくさんありますが、そのひとつ手前にあるマーケット感覚についてここまで詳しく書いた本は他にないんですよね。だから、今でもずっと読み続けていただけているのだと思います。
――この本を読むと、インターネットでモノやサービスが取引される「社会の市場化」が進むほど、マーケット感覚が重要になることを痛感します。本に書いてある通り、無職の人でも、専業主婦でも、マーケット感覚がある人は市場価値の高いビジネスをどんどん始めて、成功できる時代になりましたから。
ちきりん 『マーケット感覚を身につけよう』を出したのは2015年ですが、ようやく時代が追いついてきたと感じます。当時から社会の市場化は始まっていましたが、今はそれが、誰にでもわかるレベルで進展しています。
たとえば最近は、市場で生きる人が圧倒的に増えましたよね。YouTuberがその典型ですが、市場から直接評価される人が5年前より遥かに増えています。メルカリなどを利用して、商売人でもないのにモノを売るという経験をする人も増えてきました。そういった時代の変化が、この本がふたたび売れ始めた背景にあると思います。
――それにしても、なぜ5年も前に、「感染症が流行れば航空会社とビデオ通話システムがライバルになる」など、コロナ禍の状況を予言したような本を書くことができたのでしょうか。
ちきりん 予言したつもりはありません。飛行機会社が提供している「価値」に注目すれば、当然に思いつくレベルの話です。
まずは飛行機に乗るビジネスパーソンが、どういう目的で出張をするのか、顧客の利用場面をリアルにイメージしました。そして、「飛行機が提供している価値は何なのか?」「それと同じ価値を提供できるモノは他にないか?」と考えました。
マーケット感覚を働かせてその価値が言語化できたとき、もしも感染症が流行って飛行機に乗れなくなったら、海外の人とも遠隔的に会議や会話ができるビデオ通話システムがライバルになるだろうと想像できたのです。
――そもそも、ちきりんさんは「論理思考」や「マーケット感覚」を、どのようにして身につけたのですか?
ちきりん 大学卒業後に就職したのが証券会社だったので、金融マーケットのダイナミズムに圧倒されつつ、需給によって大きく動く市場原理を体感的に理解しました。その後アメリカのMBAで学び、外資系企業に転職します。そこで今度は、「モノの価値は需給ではなく、論理的に明確にできるはず」という考え方を学んだんです。
つまり、需要と供給で価格が決まる市場原理の世界と、モノの値段が本来いくらなのかを論理的に考え尽くせ、というふたつの異なる世界で働いて、両極端な考え方を学んだことが、今の私の強みになっていると思います。
無名の会社員が始めたブログ「Chikirinの日記」が、月間200万PV(最盛期)も集めるようなブログに育ったのも、「論理思考」だけでなく「マーケット感覚」があったからこそ。そういったことを伝えたくて、論理思考についての『自分のアタマで考えよう』の次に、『マーケット感覚を身につけよう』を書きました。
日本人が変化に弱いのは、
「論理思考」に偏り過ぎているから
――日本人は、「論理思考」はあっても「マーケット感覚」がある人が少ないように感じます。また、どちらもまだ身についていない人も多いと思うので、ちきりんさんのように、両方を武器にできる人はとても少ないのでしょうね。
ちきりん 最近だと「論理思考」は大学あたりで学ぶ人もいますし、企業研修でも重視されています。バーバラ・ミントさんから渡辺健介さんまで、論理思考に関する本はベストセラーもたくさんあります。
一方、「マーケット感覚」に優れている人は、商売で成功している人や、ゼロから1を生み出す起業家、経営者に多いんです。でもそういう人は自分が「マーケット感覚」に優れていると自覚していなかったり、言語化までするヒマがなかったり。そういうこともあって「マーケット感覚」について解説した本が、あまり出てこないのかもしれません。
正直いって私自身は、「論理思考」も「マーケット感覚」もすごく強いわけでもないんです。ただ、その両方をある程度のレベルで併せ持っている。どちらか一方で私より遥かにレベルの高い人はたくさんいるんですが、バランス良くふたつを身につけてきたのが私の強みですね。
『自分のアタマで考えよう』は『マーケット感覚を身につけよう』より遥かに早いスピードで10万部に達しましたが、これって日本人がマーケット感覚より論理思考を重視しているからだと思うんです。
でも時代はどんどん市場化が進んでいます。特に変化の多い時代は、なんでも論理的に進んでいくわけではありません。そういったことからマーケット感覚の重要性が見直されているのだと思います。
――「マーケット感覚」に自信がない人はどうすればいいでしょうか。
ちりきん『マーケット感覚を身につけよう』で、5つの鍛え方を具体的に解説しているので、ぜひそちらを読んでください。財布からお金を出して何かを買うときに「いったいどんな価値にこの額を払おうとしているのか」と意識したり、「人が動く理由や仕組み」について考える癖をつけるのもいいですね。
自分の欲望と素直に向き合うことや、顧客と直にやりとりできる市場性の高い環境に身を置くことも、マーケット感覚を鍛える手っ取り早い方法だと思います。
社会の変化が大きく不安を感じる人も少なくありませんが、論理思考に加えてマーケット感覚を身につければ、そういった変化も怖くなくなりますよ。変化って、価値があるとみなされるものが変わっていくことなんですけど、それが見えるようになりますから。ぜひごく身近な日常から、市場で高く評価される価値の変化を見出してほしいです。