「平安時代の人でもよろこぶか」

糸井重里さん「ほぼ日の判断基準は平安時代の人でもよろこぶか」撮影:竹井俊晴

糸井:ほぼ日で、何をするかを決めるときのキーワードは、「平安時代の人でもよろこぶか」ということです。

 もちろん、最先端のトレンドやファッションに注目していないわけではありません。それは遊びや趣味としてはあるけれど、本当に必要なものやよろこばれるものは、いつの時代も同じようにあります。そこに触れるものじゃないと長持ちはしないし、古典として残ることもありません。

 だから、ぼくがやってきた仕事は残っているものがあるんです。ゲームの世界では『MOTHER』、沢田研二さんの『TOKIO』という歌も残っている。矢沢永吉さんの本『成りあがり』も、うれしいことにずっと読まれています。時を越えても大丈夫なのかという意識は、ずっとぼくの中にあったような気がするんです。

中竹:「体に聞け」という問いかけは、糸井さん自身が途中から気づいていたんですか。

糸井:「体に聞け」という言い方をしたのは、実は今日が初めてです。ただ、「いちばんのモニターは自分だ」という考え方は、これまでもあったかなぁ。

中竹:そのモニターも、頭で思考するのではなく、体で感じるということですか。

糸井:頭の中にも体の中にも他者が入っているんです。密閉されたところで生きてきたわけではないので。大切なのは、体で感じてやりたいと思ったことをやることです。

中竹:もともと人間は、そこからはじまっていきますよね。それなのについ、やりたい気持ちはあっても、足りないものを見てしまう。

糸井:この間、公園のすべり台で娘の娘(編集部注:小さなお孫さん)と遊んだのですが、高いところについている手すりになんとかつかまりながら階段を上がっていくんです。でも、疲れてくると手すりにつかまる手が危うくなって落ちる可能性がある。

 だから、ぼくは落ちそうになったときの支えを準備しておくんです。こんな育ち方のほうがいいに決まっていますよね。

 一方、集団保育の中では、ほかの子は彼女のすべり台が危なくないかなんて見てくれないし、おもちゃの取り合いでけんかもする。保護者がすべて見ている時間と、保育園で互いに競争したり奪い合ったりよろこび合ったり共感したりしている時間をたっぷり経験できるなんて、人類の未来は明るいと思います。だったら、会社もそうしたいと思うじゃないですか。

中竹:そこが圧倒的にほぼ日にしかないカルチャーですよね。凸と凹をすくすく伸ばしてもらえる。

糸井:ぼくは伸ばさずにそのままかもしれません(笑)。「失敗してもいいよ」と口では言うのに、実際に失敗したら怒ることがあるじゃないですか。うちでは、失敗をからかうことはあるかもしれないけれど、怒ることはありません。

 やろうとして失敗したり、サボりたいと思ったりしたのは、自分が痛いほどわかっていますよね。怒られそうな人は、他人に怒られる前に、自分で泣いたりしているはずです。人は調子を出したくても出せない時期がある。そこで怒る必要はありませんよね。

中竹:現代社会の常識では、子どもや部下が失敗すると、親や上司は怒らなければならないという変なプレッシャーがあって、それを断ち切るのはかなりたいへんだと思います。

糸井:怒って直るのであれば怒ります。でも、怒って直ることなんか基本的にはなくて、「怒るより、もっと簡単なことをお前にやらせるぞ」という事実があるだけなんじゃないかな。もしくは「もう1回やってごらん」という方法もあるし。

 そこはスポーツチームに似ているかもしれませんね。スポーツでは、プレーのミスに対して怒っても仕方がないですよね。

中竹:そうですね。それでも、怒っている人たちはたくさんいますけどね(笑)。

(対談中編は2021年3月4日公開予定です)