唾液はどこから出ているのか?、目の動きをコントロールする不思議な力、人が死ぬ最大の要因、おならはなにでできているか?、「深部感覚」はすごい…。人体の構造は、美しくてよくできている――。
外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、Twitter(外科医けいゆう)アカウント8万人超のフォロワーを持つ著者が、人体の知識、医学の偉人の物語、ウイルスや細菌の発見やワクチン開発のエピソード、現代医療にまつわる意外な常識などを紹介し、人体の面白さ、医学の奥深さを伝える『すばらしい人体』が発刊。たちまち8万部突破のベストセラーとなり、「朝日新聞 2021/10/4」『折々のことば』欄(鷲田清一氏)、NHK「ひるまえほっと」『中江有里のブックレビュー』(2021/10/11放送)、TBS「THE TIME,」『BOOKランキングコーナー』(第1位)(2021/10/12放送)でも紹介されるなど、話題を呼んでいる。
坂井建雄氏(解剖学者、順天堂大学教授)「まだまだ人体は謎だらけである。本書は、人体と医学についてのさまざまな知見について、魅力的な話題を提供しながら読者を奥深い世界へと導く」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。

自然界で最強の「猛毒」…「酸素がなくても生きられる」驚くべき細菌とは?Photo: Adobe Stock

極めて強力な神経毒

 もし手元にハチミツを含む食品があれば、一度パッケージをじっくり見てみてほしい。「一歳未満の乳児には与えないように」との表示を見つけられるだろう。乳児がハチミツを摂取すると、ボツリヌス菌による食中毒にかかるリスクがあるからだ。

 ボツリヌス菌は、土壌や河川など、自然界に広く存在する細菌である。ボツリヌス菌がつくり出すボツリヌス毒素は、極めて強力な神経毒だ。

 ボツリヌス菌は、大人の腸内に入っても他の腸内細菌との生存競争に負け、大きな問題を起こさない。だが、腸内環境が未熟な乳児では、腸内でボツリヌス菌が繁殖して毒素を産生し、重篤な症状を起こしうる。これを「乳児ボツリヌス症」という。

 神経の麻痺によって全身の筋力が低下し、哺乳力が落ち、首が座らなくなる。重篤な場合は呼吸が止まって致命的になることもある。恐ろしい食中毒である。

 一歳以上ならハチミツは問題なく摂取できるのだが、たとえ大人であっても、ボツリヌス毒素を多く含む食品を食べると食中毒にかかる。日本でもっとも有名なのは、一九八四年六月に起きた辛子蓮根による大規模な食中毒だ。熊本県の郷土料理である辛子蓮根の真空パック詰食品により、一四都府県にまたがって三六人が発症、十一人が死亡する大事件となった(1)。

 患者は神経毒に侵され、手足が麻痺する、ものが二重に見える、呂律が回らないなどの症状が現れ、重篤なケースでは呼吸ができなくなって亡くなった。

 他にも、里芋の缶詰、グリーンオリーブの瓶詰、ハヤシライスの具の真空パックなど、さまざまな食品が原因となった事例が報告されている。

 さて、ここまで読んで、いささか違和感を抱いた人は多いだろう。缶詰や瓶詰、真空パックなどでは、食品が外気に触れずに保管されている。どちらかといえば「安全そうな商品」だ。だが、これは私たち人間が陥りがちな「思い込み」によるものだ。

 私たちを含め、多くの動物は酸素がなければ生きていけない。ところが、細菌の中には、生きるために酸素を必要としないものが多く存在する。

 これを「嫌気性菌」という。嫌気性菌はさらに、大気中に含まれる酸素濃度のもとでは死滅してしまう偏性嫌気性菌と、酸素があっても生きていける通性嫌気性菌に分けられる。前者は「酸素が必要でない」だけでなく、「酸素があると生きられない」のだ。

 偏性嫌気性菌にとって、酸素は毒なのである(どの程度の濃度まで耐えられるかは種類によって異なる)。

三十八億年前の地球

 そもそも、生物にとって酸素は本来有毒な物質である。私たちが酸素を利用できるのは、その過程で生まれる有毒な活性酸素を無毒化し、処理できるシステムが体内に備わっているからだ。

 およそ三十八億年前、無酸素状態の地球に初めて生まれた生物は、当然ながら酸素を利用する必要がなかった。その後、地球上に酸素が増えるにつれ、生物は酸素を利用してエネルギーを生み出す能力を身につけたのだ。偏性嫌気性菌が「酸素があると生きられない」というより、私たちのほうが「(本来有毒な)酸素があっても生きられる」のである。

 さて、話の流れから想像できるように、ボツリヌス菌は偏性嫌気性菌である。つまり、真空パックのように酸素が存在しない場所は、むしろボツリヌス菌にとって絶好の環境なのだ。パックの中でボツリヌス菌が繁殖し、毒素がたっぷりつくられてしまい、これを食べることで食中毒にかかってしまうのである。

 また、ボツリヌス菌には芽胞を形成できるという特徴がある。芽胞とは、いわば殻の中にこもった冬眠状態だ。厳しい環境でも耐久性が極めて高い。アルコール等の消毒液でも死滅せず、一〇〇度で長時間沸騰させても生きのびる。

 ボツリヌス菌の芽胞を死滅させるには、一二〇度、四分以上の加熱が必要だ。こうした加熱処理がされたレトルトパウチ食品と、加熱処理されていない真空パック食品は、きちんと表示を見ないと紛らわしいことがある。前者は常温で長期保存が可能だが、後者は冷蔵保存が必要であり、一般に消費期限は長くない。

 なお、芽胞とは異なり、ボツリヌス毒素そのものは熱に弱く、八〇度、三十分の加熱で機能を失ってしまう。つまり、怖いのは芽胞なのである。乳児ボツリヌス症では、腸内に入った芽胞が発芽して増殖し、毒素を産生すると考えられている。

 ちなみに、ボツリヌス毒素を有効成分とした薬が治療として使われることもある。これをボトックス治療という。

 顔面やまぶたの痙攣、脳梗塞などの後遺症による手足の痙縮(収縮しすぎてしまう状態)などに対し、神経の働きを抑える効果を狙って行われている。また、「しわとり」などの美容目的でもボトックス治療は行われる。

 微生物の持つ能力を都合よく利用するのは、人類の得意技だ。抗生物質にしても、遺伝子工学を利用した創薬にしてもそうである。人類とは、全くもって抜け目がない動物だ。