「コストプッシュ・インフレ」の克服には、「積極財政」が不可欠

 ただし、この場合の「インフレ」とは、あくまで「デマンドプル・インフレ」のことであることに注意しなければならない。

 供給の制約に起因する「コストプッシュ・インフレ」の場合については、緊縮財政によって対応しようとするのは、適切ではないのである。

 もちろん、「コストプッシュ・インフレ」の場合であっても、緊縮財政によって需要を縮小させ、供給の水準に一致させれば、確かにインフレは収まるのかもしれない。しかし、それは、縮小した供給の水準に合わせて、需要を縮小させる、すなわち、国民をより貧しくすることを意味する。

 インフレを抑えるために国民を犠牲にするような政策は、悪手であろう。

「コストプッシュ・インフレ」の原因は供給の制約にあるのだから、その対策は、供給の制約を緩和するような政策でなければならない。

 例えば、石油危機であれば、新規の油田開発や石油に代わるエネルギーの開発が必要になろう。食料危機であれば、食料生産の拡大が必要であろう。より短期的に効果を上げたければ、エネルギーや食料に関する課税や関税を軽減するという方法も考えられる。

 あるいは、徹底的な合理化によって効率性を高め、生産性を上げることで、供給制約を緩和するというのも、有力な対策である。特に、抜本的に生産性を上げるためには、交通、通信、電力などのインフラの整備、研究開発、人材の育成などが必要であろう。

 しかし、上記に挙げた対策のうち、石油代替エネルギーの開発、食料生産の拡大、インフラの整備、研究開発、人材の育成などは、大規模・長期的・計画的な公共投資、あるいは民間投資に対する助成・支援がなければ困難であろう。

 要するに、これらの「コストプッシュ・インフレ」を克服するためにもまた、結局のところ、積極財政を必要とするということである。

 もちろん、その積極財政は、供給能力が完成するまでの間は、投資需要を拡大するから、インフレをさらに高進してしまうリスクはあるだろう。しかし、そういうインフレ・リスクを回避したければ、低インフレであった間に、公共投資を拡大しておくべきだったのだ。

 だが、それをやっていなかったのなら、インフレ・リスクを甘受するしかあるまい。「コストプッシュ・インフレ」を克服するためには、供給能力の拡大が不可欠であり、供給能力の拡大は、投資なくしては不可能だからだ。

日本はアメリカ以上に「積極財政」を必要としている

 さて、以上のインフレにおける「デマンドプル」と「コストプッシュ」の区別を念頭に置いた上で、改めて、現在のアメリカにおけるインフレについて見てみよう。

 まず、コロナ禍が一服し、需要が戻りつつある中で、バイデン政権の積極財政が功を奏していることから、「デマンドプル・インフレ」の側面は確かにある。

 だが、この「デマンドプル・インフレ」は、経済の正常化の過程で起きているものであり、望ましい現象である。実際、失業率は低下し、完全雇用に近づきつつある。

 しかも、11月の消費者物価上昇率は前年同月比6.8%とは言え、1970年代の物価上昇率が二桁台だったことを考えると、この程度の数字では、過度なインフレとまでは言えまい。

 例えば、1960年代末、消費者物価上昇率は5.5%に達していたが、当時のアメリカは、高成長と低失業率を実現していたのである。これこそが、イエレンの言う「高圧経済」である。現在のアメリカは、その高圧経済が目論見通り実現しつつあるものと見てもよいかもしれない。

 その一方で、現在のアメリカのインフレの原因が、供給の制約にあることは、明白である。

 具体的には、港湾のキャパシティの逼迫などによる物流の混乱、半導体の供給不足、原油高などである。

 こうした供給の制約は、需要の回復とは違って、好ましいものではない。したがって、現在、アメリカで問題になっているインフレは、「コストプッシュ・インフレ」だと判断してよいであろう。

 だとすると、インフレ対策として、財政支出の抑制や金融の引き締めによって、需要を供給の水準にまで引き下げようとするのは、失策となる。それは、短期的には不況や失業の増大をもたらし、長期的には、供給能力を高めるための投資を減退させる結果を招く。要するに、経済が成長しなくなるということだ。

 したがって、供給の制約を緩和し、「コストプッシュ・インフレ」を解消するような政策を講じるべきである。具体的には、物流のキャパシティを拡大するためのインフラの整備、半導体の増産、クリーン・エネルギーの開発、そして生産性の向上などである。

 そして、そのためには、先ほど言った通り、大規模・長期的・計画的な積極財政が必要になるのだ。

 極めて興味深いことに、ノーベル経済学賞を受賞した経済学者17人(注)が公開書簡を発出し、インフラ整備やクリーン・エネルギー開発、研究開発や教育などに対する積極財政を支持している。

 そこには、こうした積極財政こそが「長期のインフレ圧力を緩和する」と書かれている。

 一方、日本の財政再建派の経済学者は、インフレが起きるのを恐れて、積極財政を否定し続けている。

 それとは対称的に、この17人のノーベル経済学賞受賞者たちは、インフレを懸念するからこそ、積極財政を求めているのだ。

 なお、現在の日本は、11月の企業物価指数が前年同月比9.0%と、41年ぶりの高水準となっているというのに、消費者物価指数(生鮮食品及びエネルギーを除く総合)は前年同月比▲0.6%なのである。

 これは、非常に危険な事態である。

 企業物価指数の急騰は「コストプッシュ・インフレ」を示しており、消費者物価指数の下落は「デマンドプル・インフレ」を否定するどころか、「デフレ」を示している。

 何と、日本は、「コストプッシュ・インフレ」と「デフレ」の両方に苦しめられているのだ。

 結論は明らかであろう。

 日本は、アメリカ以上に、大規模・長期的・計画的な積極財政が必要なのだ。

 だが、健全財政に固執する論者たちは、この「コストプッシュ・インフレ」を悪用し、「インフレ」という口実で、緊縮財政を主張するであろう。

 読者諸賢は、よくよく注意されたい。

(注)ジョージ・アカロフ、アンガス・ディートン、ピーター・ダイアモンド、ロバート・エングル、オリバー・ハート、ダニエル・カーネマン、エリー・マシュキン、ダニエル・マクファーデン、ポール・ミルグロム、ロジャー・マイアソン、エドマンド・フェルプス、ウイリアム・シャープ、ロバート・シラー、クリストファー・シムズ、ロバート・ソロー、ジョセフ・スティグリッツ

中野剛志(なかの・たけし)
1971年神奈川県生まれ。評論家。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文“Theorising Economic Nationalism”(Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』『世界を戦争に導くグローバリズム』(集英社新書)、『富国と強兵』(東洋経済新報社)、『国力論』(以文社)、『国力とは何か』(講談社現代新書)、『保守とは何だろうか』(NHK出版新書)、『官僚の反逆』(幻冬社新書)、『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』『全国民が読んだら歴史が変わる奇跡の経済教室【戦略編】』(KKベストセラーズ)、『小林秀雄の政治学』(文春新書)、『変異する資本主義』(ダイヤモンド社)など。