メール、企画書、プレゼン資料、そしてオウンドメディアにSNS運用まで。この10年ほどの間、ビジネスパーソンにとっての「書く」機会は格段に増えています。書くことが苦手な人にとっては受難の時代ですが、その救世主となるような“教科書”が昨年発売され、大きな話題を集めました。シリーズ世界累計900万部の超ベストセラー『嫌われる勇気』の共著者であり、日本トッププロのライターである古賀史健氏が3年の年月をかけて書き上げた、『取材・執筆・推敲──書く人の教科書』(ダイヤモンド社)です。
本稿では、その全10章99項目の中から、「うまく文章や原稿が書けない」「なかなか伝わらない」「書いても読まれない」人が第一に学ぶべきポイントを、抜粋・再構成して紹介していきます。今回は、ライターという職業の中核機能であるべき「翻訳」の考え方について。

ライターは思考や感情の「翻訳者」でなければならないPhoto: Adobe Stock

「翻訳」こそが
ライターの中核機能だ

 書くことは「翻訳」であり、対象の翻訳こそがライターの中核機能である。これはわたしの揺るぎない信念のひとつです。

 翻訳とは一般に、「ある言語で表現された文章を、別の言語に置き換えること」を意味することばです。もっと簡単にいえば、「外国語の文章を、日本語の文章に置き換えること」やその逆(和文の英訳など)を指します。

 しかしわたしは、もう少し広い意味で「翻訳」の語を使いたいと思っています。

 たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんは、泣くことによって意思を伝達します。おなかが空いたときも、おむつが濡れて気持ちが悪いときも、不安を感じたときも、泣き声によってその気持ちを伝達します。しかしこのままでは、コミュニケーション効率が悪すぎる。大人たちからすれば、なにをしてほしくて泣いているのかわからないし、おそらくは赤ちゃん本人も泣きながらもどかしいばかりでしょう。

 やがて赤ちゃんは単語をおぼえ、まとまりを持ったことばをおぼえ、より正確にみずからの意思を伝達できるようになっていきます。

 コミュニケーション(意思の相互伝達)の文脈で語るなら、これは「ことばをおぼえた」というよりも、「翻訳手段を手に入れた」と考えるほうがふさわしいでしょう。自分の気持ちを、泣き声や表情よりも何十倍も正確に伝える――つまりは「翻訳」する――手段を手に入れた。自分の置かれた状況を、分かち合いたい情報を、翻訳する手段を手に入れた。そう考えるほうが、より事実に即しています。ことばを使ってコミュニケーションしている時点でもう、わたしたちは「わたしという人間」の翻訳者なのです。

その激情を
ことばに翻訳してみよう

 しかも翻訳は、他者とのコミュニケーションにとどまりません。

ライターは思考や感情の「翻訳者」でなければならない古賀史健(こが・ふみたけ)
1973年福岡県生まれ。九州産業大学芸術学部卒。メガネ店勤務、出版社勤務を経て1998年にライターとして独立。著書に『取材・執筆・推敲』のほか、31言語で翻訳され世界的ベストセラーとなった『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』(岸見一郎共著、以上ダイヤモンド社)、『古賀史健がまとめた糸井重里のこと。』(糸井重里共著、ほぼ日)、『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(星海社)など。構成・ライティングに『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』(幡野広志著、ポプラ社)、『ミライの授業』(瀧本哲史著、講談社)、『ゼロ』(堀江貴文著、ダイヤモンド社)など。編著書の累計部数は1300万部を超える。2014年、ビジネス書ライターの地位向上に大きく寄与したとして、「ビジネス書大賞・審査員特別賞」受賞。翌2015年、「書くこと」に特化したライターズ・カンパニー、株式会社バトンズを設立。「バトンズ・ライティング・カレッジ」主宰。(写真:兼下昌典)

 こんな場面を想像してみましょう。

 あなたが狭い歩道を歩いているとき、後ろから自転車のベルが聞こえてきたとします。振り向くと、自転車に乗ったおじさんが、ベルを鳴らしながらこちらに向かって走ってくる。自転車は歩道のまんなかを堂々と走っていて、車道に出る気はなさそうだ。あなたはやむなく道を譲り、自転車を通してあげる。おじさんはお礼やお詫びのことばもないまま、さも当然のように歩道を走り去っていく。

 想像しただけでも腹の立つシチュエーションでしょう。おおきく舌打ちして、腹のなかで「このクソオヤジ!」と罵ってしまうかもしれません。

 でも、落ち着いて考えましょう。このときあなたは、なにに腹を立てたのでしょうか?

 怒りの対象は、当然「おじさん」です。

 おじさんは、自転車では走行してはいけないはずの歩道を、走ってきた。そしておじさんは、道を譲れとばかりにベルを鳴らしてきた(厳密にはこれも違法行為です)。

 じゃあ、あなたは法令遵守という観点から、おじさんに腹を立てたのでしょうか?

 それだけではないでしょう。違法や合法という以前に、おじさんの見せた図々しい態度に、腹が立った。耳障りなベルの金属音に腹が立ち、おじさんの顔つきにさえ、腹が立った。あるいは、思わず道を譲ってしまった自分に、腹が立ったのかもしれません。その場でおじさんを呼び止め、注意できなかった臆病な自分に、腹が立ったのかもしれません。怒りの対象はおじさんではなく、自分だったのかもしれません。

 ――こうして内省することは、いわば「感情の翻訳」です。怒りや悲しみ、喜びなど、ことばを伴わない感情を、ことばにして考える行為です。

 美術館でゴッホやセザンヌの絵画を観て、こころが震える。それ自体、すばらしい体験でしょう。でも、せっかくこころが震えたのなら、その震えを「翻訳」したほうがいい。書かなくてもかまいません。誰かに伝えなくてもかまいません。感情の揺れ、震えを、ことばにする(翻訳する)ことを、習慣化するのです。それは自分という人間を知ることでもあり、ことばの有限性を知ることでもあり、翻訳機としての能力を高めていく格闘でもあります。

文章術とは、
ひとえに翻訳術のことである

 わたしは、文章の書き方を学ぶことは、ひとえに「翻訳のしかた」を学ぶことだと思っています。文章とは、ゼロからつくるものではありません。すでにある素材(思考や感情、あるいは外部の情報)を、ていねいに翻訳・翻案していったものが、文章なのです。

 わたしたちはみな、自分自身の翻訳者でなければなりません。

 そしてライターはみな、「取材したこと」の翻訳者でなければなりません。

 すべての文章は翻訳の産物であり、すぐれた書き手はみな、すぐれた翻訳者なのです。

(続く)