ロングセラー書籍『コンテナ物語--世界を変えたのは「箱」の発明だった』(日経BP社)の著者マルク・レヴィンソンの最新刊『物流の世界史--グローバル化の主役は、どのように「モノ」から「情報」になったか?』より、その一部をご紹介する。
第一のグローバル化が終わった日は、ある程度正確に特定することができる。1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者が、当時の帝国領ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで暗殺された。1ヵ月にわたって威嚇や派兵が繰り返された末、各国がそれぞれの同盟国を支援しようと介入し、ヨーロッパ全域で戦争が勃発した。
オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告した7月28日、モントリオール、トロント、マドリードの証券取引所が閉鎖された。7月30日にドイツとロシアが軍隊を出動させると、ウィーンからパリに至る取引所もことごとく閉鎖された。7月31日、ドイツ軍がベルギーとフランスへの侵攻を計画していることが明らかになり、ロンドン証券取引所が業務を停止した。それから数時間後、ニューヨーク証券取引所には開場の10時を前に仲買人たちが立会場に集まっていたが、取引開始を知らせる鐘を鳴らす役の男性は待機を命じられた。
閉鎖を決断したのは、世界中の取引所が閉鎖されるなかで「その日の朝に取引を再開すれば、ニューヨークに世界的パニックが集中する」はずだからだと、取引所の所長はのちに語っている。だがこれは真実の一部でしかない。取引停止の決定には財務長官ウィリアム・マカドゥが深く関わっていたのだ。マカドゥが恐れたのは、午前10時の取引開始の鐘とともに外国人が手持ちの株や債券を売り払い、その代金で金を購入してヨーロッパに持ち帰り、戦費の補填に使うことだった。米国ではヨーロッパの大半の国と同様、金が金融システム全体を支えており、銀行は求められれば公定価格で紙幣を金に変える義務があった。米国の金が海を越えて吸い上げられれば、銀行はもはやこの義務を果たすことができず、まさに「パニック」が起きていただろう。銀行からの融資は干上がり、企業は給料を払うこともできず、経済全体がストップしていただろう。
かつては1ドルで購入できる金の量を減らすか、ドルを金ではなく銀で兌換することで金流出の問題を解決することができた。だがヨーロッパの主要通貨に対するドルの固定相場は、金に基づいて設定され、それによって為替リスクを取り除いて外国から米国への投資を呼び込んでいた。外国企業全体で米国の国内生産の約5%を占め、外国人が繊維工場やタイヤ工場、約27億ドルの鉄道債券、そして米最大の会社「米国鉄鋼公社」の株の4分の1を所有していた。米国はこうした投資によって1870年代以降、変革を遂げてきたのだ。外資が逃げないようにするには、金本位制を維持するしかなく、それには金融のグローバル化を一時的に停止する必要があったのだ。外国為替取引は停止され、グローバル化の最大の担い手の一つだったニューヨーク証券取引所は、9ヵ月近く通常業務を停止した。
金融市場の混乱は、モノとカネが国境を越えて自由に移動する世界というビジョンへの最初の一撃に過ぎなかった。第二の衝撃は国際貿易の激減だった。貿易を混乱させることは同盟側(当初はドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国)、協商側(フランス、ロシア、英国、日本)のいずれにとっても重要な戦略目標だった。第一次大戦の開戦と同時に、英国海軍はドイツを封鎖。ドイツ行きの船は拿捕され、ノルウェーやオランダなど中立国に向かう船も英国の港に強制入港させられ、ドイツ向けに積み替える恐れのある荷物はすべて当局に押収された。戦況不利なドイツの商船隊の多くは、ブレーメン、ハンブルク、リューベックなどの港に足止め状態となった。
後に英国の高官が述べたように、ドイツには「船に関する問題はいっさいなかった。そもそも船を出す機会がなかった」。ドイツ側は対抗措置として、英国行きの商船をすべて撃沈すると宣言した。船舶の保険料を引き上げて、貿易活動を阻もうという意図は明らかだった。英国、ノルウェー、米国ではただちに政府が船舶保険に補助を出し、貿易活動の維持に努めた。
こうした状況で、地理的条件と海軍力でまさる英国は有利な立場にあった。最初の数ヵ月は封鎖も完璧ではなく、ドイツの繊維工場は当時中立の立場にあった米国とスウェーデンを経由して、オーストラリア産羊毛を輸入していたし、米国もドイツの繊維染料を輸入する権利を主張していた。それでも1915年になると、ヨーロッパ第二の貿易国ドイツの通商活動は劇的に制限され、ロシアに宣戦布告したことから東からの穀物輸入も途絶えた。英国は封鎖を強化するため、ドイツへの食糧・鉄鉱石の輸出を止めなければ石炭の供給を止めると言って、スカンジナビア諸国を脅した。容赦のない圧力を受けて、ドイツの対外貿易は1913年から1917年までの4年間で4分の1に縮小した。
商船の往来が途絶えたことは、西部戦線での血みどろの塹壕戦よりはるかに大きな打撃となった。1914年夏の時点で、英国は世界の外洋海運の半分近くを支配していた。蒸気船最大手のペニンシュラ・アンド・オリエンタルや、東南アジア全域に貨物・旅客を輸送するチャイナ・ナビゲーション・カンパニーなど、英国籍の船会社がアジア貿易で巨大なシェアを占めていた。その持ち船の多くは英国政府によって軍事用に徴収され、残りの船も新設された海運省と呼ばれる機関の管轄下に入った。そして海運省は英国だけでなく、フランスやイタリアの貿易までも実質的にコントロールすることになった。商船はどんな貨物を、どこに運んでよいかを指示され、不要な貨物が貴重な輸送力を奪うことがないよう、承認を受けた製品しか輸入が許されなかった。
開戦翌年の1915年、世界貿易は1913年より26%も減少した。ヨーロッパの輸出は半分に落ち込み、戦場から何千キロも離れた中南米でも、輸出業者はコーヒーや肉を運ぶ船を見つけるのに苦労するようになった。新船建造の見通しはほとんど立たず、それまで世界の造船トン数の3分の2を占めていた英国の造船所では、労働者が戦争にかり出されて生産を続けられなくなった。米国では1916年に造船ペースが加速したものの、1917年4月にドイツに宣戦布告したのちは、新造船は兵士や軍需品の輸送に徴用され、貿易に回されることはなかった。さらにはドイツ軍の潜水艦攻撃で中立国や協商国の商船隊に大損害が生じ、船舶トン数の不足はさらに深刻化した。
英国当局は被害が軽微であるかのように装い、1917年初めには毎週2500隻の船が英国の港に入港していると宣伝して、国民の士気を高めようとした。実際にはそのうち2360隻が外洋航海のできない小型船で、残りの140隻も小麦や牛肉などの必需品を運ぶ船だということは伏せられた。こうして海運が縮小した結果、1913年から1918年にかけて中国の輸入は34%、イタリアは62%、イランはなんと75%も減少した。第一次大戦の4年3ヵ月の間に、世界貿易はおよそ3分の2にまで縮小した。