正当化の理論と、闘争の賭金としての文化
価値基準を提示するということを、人文社会学はどのように示してきたのか、具体的に見ていきましょう。
アーティストであるクリスチャン・ボルタンスキーの兄、社会学者リュック・ボルタンスキーと経済学者ローレン・テヴノーは『正当化の理論―偉大さのエコノミー』という本で、私たちが日頃何気なく口にする「すごい」がどのように生み出されているかを示しました。
すなわち、社会において「偉大なもの」とされるものは何なのか。彼らが示した答えは、人が自分の価値を表現するためには、単に「自分はすごいぞ」と言うだけでは意味がないということです。価値は基準がなければ、良くも悪くも受け取られません。よって、偉大な価値を示すためには、モノや人が一貫して配置された特定の世界観を作り、価値の基準を提示するべきだとしています。
先述したように、これこそが文化をつくるということです。すでにある基準でつくられた文化は、「どこかで見たことがあるな」と感じられ、人々を魅了することはなく、厳しい競争にさらされ、あっという間に新しさを失います。新しい文化をつくることは、今までの基準とは異なる新しい価値基準を持つ世界観を提案することと不可分です。
続いて、文化を「闘争の賭金」と呼んだフランスの社会学者ピエール・ブルデューについても紹介しましょう。人は文化をつくることで、自分を他者と差異化し、より上位に位置付ける「卓越化」を行います。ブルデューは、「差異化=卓越化」と訳される「ディスタンクション(distinction)」という概念を提唱しました。ブルデューの考え方に照らし合わせると、なぜ「正統文化」というのが一般大衆にはわかりにくいものになっているのかが分かります。
フランスの文化的エリートは、他の人が簡単には真似できない「正統文化」を持っています。正統文化の作法は合理的にはできていません。なぜなら、合理性は効率性を意味し、時間もお金もない労働者の価値基準だからです。正統文化は、合理的ではなく、わかりにくく不自然な作法を身につけるために時間と資金を費やすことに価値がある、という価値基準の上に成立しています。そしてフランスの文化的エリートは、そこで自然と作法に従ってふるまえる自分たちに価値がある、ということを示すのです。
この価値基準は、なかなかハードルが高く、超えられないものです。たとえば世の中には「文化的エリートに憧れる層」がいますが、彼らは背伸びをし、無理をしてでしか正統文化を嗜むことはできません。ぱっと見では真似できていても、非合理的なふるまいを自然にできる時間的、経済的余裕という文化的エリートの本質までは、なかなか真似できません。背伸びをしていては、単なる「文化的エリートの真似をしているフォロワー」であり、差異化=卓越化することができない。正統文化は、非常に巧妙な価値基準の設計の上に成り立っているのです。文化的エリートたちは、こうした文化を作ったことで、自らの力を維持しているわけです。
このように、人文社会学の観点から文化を読み解いていくことで、現在の社会に漠然と存在している格差を分析することができます。
大衆文化の価値基準
価値基準は、大衆文化にも見出すことができます。例えばティーネイジャーのサブカルチャーでは、マイナーな音楽を知っていることが自己表現となり、そうした音楽を聴いていることで、差が生まれます。すなわち、「イケている」・「イケていない」が定義されるというわけです。ファッションでは、この文化が次々と変化します。昨年までイケていたものが、今年になるとダサくなるというわけです。価値基準が1年でまるきり変化しているのです。今の若者が突然ノンアルコール、ヴィーガン、筋トレに魅かれるのは、健康を気遣っているからではなく、ファッションだからですね。
ちなみに、金銭で人の価値を計ることも、ひとつの文化であり、自己表現です。たとえば、80年代に金融で稼ぐことが価値であった時代がありました。87年のオリバー・ストーン監督の映画『ウォール・ストリート』でゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)が「欲は善だ」と表現したような世界です。このような価値観は批判の対象になっていますが、80年代に浸透した新自由主義は、それまでの支配構造に対する意義申立てだったのです。生れや教育でエリートになり支配層を形成していく従来の社会に対して、自分の力で稼ぐことで自分を証明することは、まさに反エリート主義、自由主義でした。
同じように、1776年にアダム・スミスが『国富論』で、それぞれが自らの利益のために行動する世界を示したとき、人々が作り出す富を中央集権的な君主から守る自由主義を意味したのです。そうした価値基準がつくりあげられたことで、人々が金銭によって自己表現することが可能になったのです。
そうした文化が批判され、現在は逆にSDGs、ESG投資、カーボンニュートラルの実現などに企業が力を費やしていますが、これらも文化であり、自己表現です。余談ですが、2010年の続編『ウォール・ストリート』で、こうした資本主義と持続可能性の葛藤がうまく表現されています。たとえば、企業が単にカーボンニュートラルを実現したと発表しても、人々からそれほど大きな価値であるとは認識されないでしょう。この文化は資本主義の論理や自然と人間の二元論という既存の枠組みを攪乱することを価値としているのであって、カーボンニュートラルという枠組みの中で勝負をしている姿は価値があるとは映らないのです。こうした領域でこそ、既存の文化の中で価値を示すのではなく、新しい文化をつくらなければなりません。この点については、また別の機会で詳しく議論したいと思います。
歴史をつくるイノベーションは、次の時代を表現することです。これは、新しい価値基準を提案することです。そして、人々に新しい基準で自己表現することを可能にします。そのようなイノベーションは、単に消費者の潜在ニーズを満たすことや、美しいものや格好いいもので人々を魅了することでは生み出せない、大きな価値となります。
次回は、特に文化的エリートに着目し、近年新しい動きを見せるポストラグジュアリーの動向をお話したいと思います。