文化的エリートの変遷とラグジュアリー

これらのラグジュアリーの変化を正確に捉えるには、文化的エリートの変遷を理解しなければなりません。

フランスの社会学者ピエール・ブルデューが興味深い分析をしています。60年代までの古い社会においては、文化的エリートは特定のクラシック音楽を聞いて、特定の絵画を好み、特定の料理を好みました。その趣味は、基本的には内容よりも形式を重んじて禁欲的です。例えば、フランスのテーブルマナーは、お腹が減っていないように食べなければなりません。

逆に大衆的な趣味は、形式よりも内容を重視します。エリートが味が薄くてわかりにくく食べにくいという意味で禁欲的な「魚」を好むとすると、大衆的な趣味は味がわかりやすく栄養のある「豚」を好みます。逆に、形式にこだわると、格好つけるなと周りから馬鹿にされます。中間層は、エリート文化に同一化しようとして上昇志向を持っています。無理して高級なワインを開けたりするわけですが、無理をしている時点でエリート文化を実践することに失敗しています。エリートは緊張感があるなかで自分がどう見られているのか気にせず、自然と無理することなくふるまえないといけないのです。

しかし、現在の社会は、この3階層のモデル(エリート、中間層、大衆)は説得力を失いました。クラシック音楽しか聞かないエリートなんていません。みんなロックやポップスを聞いています。これを「雑食(オムニボア)」と言います。昔のエリートがスノッブと言われて、高級でわかりにくいものしか好まなかったことに対して、現在のエリートは幅広いものを好む雑食になったのです。さらに最近のエリートは、高級車ではなく自転車にお金を使い、ミシュランガイド3つ星の料理屋ではなく自分でエキゾチックな料理をし、大きくゴージャスな家ではなく小さくてもセンスのいい家を好みます。趣味が逆転したように見えますね。

その理由は何でしょうか? ひとつには、60年代以降の消費者文化の発展によって、多くの人が高級文化にアクセスできるようになり、高級文化と低級文化の差がわからなくなったため、差異化できなくなったという事情があります。むしろ高級なものが陳腐になり、エリートはそれを否定しなければならなくなりました。さらに重要なことは、60年代終りに始まる若者の異議申し立ては、それまでの階層的な社会への批判でもあったということです。前の世代のスノッブなエリート主義は、伝統的な価値観であると批判され、もはや「クール」ではなくなったのです。

たとえば、以前の食通は「グルメ」と呼ばれ、高級なものを好みました。スノッブであることが格好良かった時代の話しです。現代の食通は自らを「フーディ」と呼び、スノッブであることを毛嫌いし、民主的な理想を掲げます。だから高級なものも食べますが、田舎のおばあちゃんの作る昔ながらのレシピ、高級なテキーラではなく土地に根差して品質も安定しないメスカル、フードトラック(キッチンカー)で提供されるB級グルメにこだわったりします。

ポストラグジュアリーと同じように、自然の素材、伝統的な製法、丁寧な手作りを重視しながら、スノッブなエリート主義を批判するものに価値が生まれているのです。しかしよく考えると、このような新しいエリートは、従来のエリート的なものが陳腐になったので、自らを差異化=卓越化するために、エリート主義を批判している新しいエリート主義とも言えます。格好をつけないことが格好いいというわけです。

一方で、現在のエリート文化は、利益を上げるために上辺だけよく見せるような資本主義的な表現を批判し、むしろ資本主義を批判するような正直で実質的なものに価値を見出します。従来は社会の階層構造に信憑性があったため、ブランドはそれだけで価値がありましたが、今はそのような階層構造に頼ることができません。そこで、価値を出すためには、真正性を確保しなければなりません。現在は、資本主義への批判が真正性を持つようになりました。だからこそ、人間らしさ、職人のこだわり、伝統への回帰などが価値となるのです。

ポストラグジュアリーは、この潮流に合った動きであると考えられます。現在、大きな価値を生み出すためには、このような文化を作ることが求められています。今回はエリート文化に注目しましたが、これはサブカルチャーやポピュラーカルチャーでも同じです。文化をうまく捉えてデザインする企業がイノベーションを起こす時代と言えます。