頭のいい人は、「遅く考える」。遅く考える人は、自身の思考そのものに注意を払い、丁寧に思考を進めている。間違える可能性を減らし、より良いアイデアを生む想像力や、創造性を発揮できるのだ。この、意識的にゆっくり考えることを「遅考」(ちこう)と呼び、それを使いこなす方法を紹介する『遅考術――じっくりトコトン考え抜くための「10のレッスン」』が発刊された。
この本では、52の問題と対話形式で思考力を鍛えなおし、じっくり深く考えるための「考える型」が身につけられる。「深くじっくり考えられない」「いつまでも、同じことばかり考え続けてしまう」という悩みを解決するために生まれた本書。この連載では、その内容の一部や、著者の植原亮氏の書き下ろし記事を紹介します。

遅考術Photo: Adobe Stock

そもそも、ジレンマとは?

 ジレンマとは、2つの選択肢が与えられたときに、そのどちらを選んでも望ましくない結果が待っている状況に追い込まれていることをいう。

 単に難しい局面を意味する場合もあるが、とりわけ厳しい二択(二者択一)を迫られているがゆえに、進退窮まる苦境に陥っている状態を指すと思えばよい。

 今回はその対処法の一つについて、述べていく。

 厳しい選択を迫られているという前提そのものを崩し、選択するという行為をやめる、というもので、ジレンマという状況全体を否定するわけだ。 

さっそく、アリストテレスの『弁論術』に出てくる例(※1)を使ってみていこう。

問題:演説のジレンマ

 ある女司祭が、息子に公の場での演説を許さない理由として、以下のように述べた。

 なぜなら、もしお前が正しいことを述べるようなら、人々はお前を憎むことになろうし、もし不正なことを述べるようなら神々の憎むところとなろうから。

 ――このジレンマをかわすにはどうしたらよいだろうか? ただし、演説そのものを取りやめることはできないものとする。

ジレンマの解決策を探る

 まずは、このジレンマを整理してみる。女司祭の発言を、息子に厳しい二択を迫るものとして示す。

A:正しいことを述べると、人々が憎む
B:不正なことを述べると、神々が憎む

 というジレンマになる。確かに、AとBのどちらをとっても望ましくない結果が待っている。なお、「正しい」「不正」というのは、道徳的な観点からのよしあしのことだと思ってほしい。

 神に憎まれる方が圧倒的にマズいのではないか、と思った方もいるだろう。その点については、香西秀信氏がおおよそこう述べている。(※2)

 17世紀にフランスで書かれた『ポール・ロワイヤル論理学』でも、神への配慮と人間への配慮が等価なはずはないとして、これがジレンマを構成することに疑問が呈されている。が、それはキリスト教文化に拘束されているせいで、古代ギリシア世界の「神々」を無意識のうちに単数・大文字のキリスト教の「神」に変換してしまっているからにすぎない、と。

 というわけで、ここでは、神々と人々に憎まれるのは、どちらも同じくらいヤバいんだと想定してほしい。つまり、ちゃんとジレンマとして成立している、と。

 そのうえで、どう切り抜けるかだ。今回解説している対処法は「選択するという行為をやめる」だから、演説そのものをしなければよいのでは、と考えたくなる。

 確かにそれも一つの手なのだが、問題文には、「ただし、演説そのものを取りやめることはできないものとする」とある。

 何らかの事情で、演説は辞退できない。だから、形だけでも演説をしなければならない、という場合にどうすればいいか?

 注目すべきは、「形だけ」の部分。「お前は形だけだ」と叱られたことがある人もいるのではないか。要するに、中身がない、ということだ。

 ここでの解答の方向はこれだ。無内容なこと、無意味なことをあえて述べる、というのが一つの対処法になる。

 演説に中身がないかわりに、正しいも不正も関係なくなる。確かにそれなら、誰からも憎まれない。

 でも、無内容・無意味なこととは、実際には何を言えばいいのだろうか? その例として、「トートロジー」が挙げられる。

同じことを繰り返す、トートロジー

 トートロジーとは、日本語では「同語反復」とも呼ばれ、要するに同じことを繰り返し述べているだけで、誤りにはなりえない一方で情報量は増えない主張のことである。論理学では厳密な定義が与えられるが、日常的な場面ではこのようにおおまかに特徴づけておけば十分だ。

 言葉の意味に関わるものとしては次のような例がある。
・失望とは望みを失うことだ
・独身者は結婚していない
・24時間後には明日になっている

 他に、論理的には必ず正しくなるとされるタイプのトートロジーもある。
・明日は、晴れるか晴れないかのどちらかだ(Aまたは非Aだ)
・もし、明日が晴れるなら、明日は晴れだ(AならばAだ)
・お腹が空いていなくはないとは、空腹だということだ(非「非A」はAだ)

 ただし、トートロジーを含め、当たり前のことをあえて述べることに常に何も意義が伴わないわけでもない。

 たとえば「一日は誰にとっても24時間しかない」のような発言は、とりたてて新しい情報を含んではいないが、それでも聞き手に何らかの気づきや動機づけを与える働きをすることがあるだろう。

 政治家には、トートロジーっぽいことをいつも言う人がいる。

 どちらかというと詭弁に近い気もするが、好意的に解釈すれば、中身がない話をする人は、実は何らかのジレンマに陥っているせいで、そうせざるをえない事情があるのかもしれない。

(※1)アリストテレス『弁論術』、戸塚七郎訳、岩波書店、岩波文庫、1992年、277頁。
(※2)香西秀信『レトリックと詭弁――禁断の議論術講座』、筑摩書房、ちくま文庫、2010年、109~110頁。

(本稿は、植原亮著『遅考術――じっくりトコトン考え抜くための10のレッスン』を再構成したものです)

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植原 亮(うえはら・りょう)

1978年埼玉県に生まれる。2008年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術、2011年)。現在、関西大学総合情報学部教授。専門は科学哲学だが、理論的な考察だけでなく、それを応用した教育実践や著述活動にも積極的に取り組んでいる。
主な著書に『思考力改善ドリル』(勁草書房、2020年)、『自然主義入門』(勁草書房、2017年)、『実在論と知識の自然化』(勁草書房、2013年)、『生命倫理と医療倫理 第3版』(共著、金芳堂、2014年)、『道徳の神経哲学』(共著、新曜社、2012年)、『脳神経科学リテラシー』(共著、勁草書房、2010年)、『脳神経倫理学の展望』(共著、勁草書房、2008年)など。訳書にT・クレイン『心の哲学』(勁草書房、2010年)、P・S・チャーチランド『脳がつくる倫理』(共訳、化学同人、2013年)などがある。