本当の意味での「多様性」は
議論の土台にさえ乗っていないのでは

「先生同士の会議って、多数決よりは全会一致のような気がしていて、反対意見があるとどうしても現状維持の流れになってしまうのかもしれません。割と私の意見に賛成してくれる先生もいたのですが、次の代の担任の先生たちは、自分たちの代で制度が変わってしまうことが心配なのかなと」

古野氏NPO法人カタリバの古野香織氏 Photo by Aoi Higuchi

「学校のルールづくりというのは、本当に政治だなと感じる部分は多いですね。生徒が本当にルールを変えたいと思ったときに、自分たちの状況をより俯瞰的に見て、真っ向から提案するよりも、まずはこの先生に相談してみようとか、そういう発想に生徒がなっている。学校というのは、小さな政治社会だと思うときがよくあります」と古野氏。

 田原カフェは、インスタライブ(SNSのInstagramを活用したライブ配信)を行っている。視聴者から届いた「学校というのは年々、多様性を学ぶことができなくなっている気がします」というコメントをモデレーターが読み上げると、古野氏がこう答えた。

「学校教育の大きな目的の中に、主権者を育てること、つまり、主体的・自立的に物事を考え、判断できる人物を育てることがあると思います。しかしその一方で、先生としては、子どもたちが世の中に出た時に『異質な存在』にならないようにする、ということも同時に大事にされているのではないかと。先生たちはよく『世の中に出て恥ずかしくない人間を育てなければならない』と言います。これは何も意地悪でそうしようとしているのではなく、周囲と違うことで本人が困る、居心地が悪くなる、結果、居場所がいなくなる、ということを回避してあげたいという気持ちからきているのだと思うんです」

 古野氏が続ける。「先生たちは、自分で考えられる人間も育てなければならないし、協調性を大事にする人間も育てなければならない。この矛盾するふたつの間でせめぎ合っている。私も学校教育に関わる人間として、これらのバランスをどう調整するかというのは、いつも悩みますし、ほかの先生たちも同じように悩んでいるのだと思います。このふたつのどちらを強くするかは、時代の背景だったり学校の状況だったりで異なってくるのではないでしょうか」

 別の参加者たちからも手が挙がる。「本当に多様性を語るのであれば、不寛容を寛容しなければいけないのではないかと思うんです。例えば学校教育でいう『多様性』というのは、あくまで強いチームをつくるための、というカッコ付きの多様性だと思うんですよ。学校に行きたくないという不登校の生徒も、本当に多様性を求めるのであれば学校教育で受け入れる必要がある。選挙の投票だって、政治に興味のない人の意見にも対応しなければならない。学校というのは、戦前の軍隊をつくるための機能がいまだに受け継がれている部分もあると思うのですが、皆が皆、同じ技能を持って生まれてこないじゃないですか。僕はラグビーをやっていたのですが、走るのが速い人、力が強い人、そういった多様性はあるけども、ラグビーに興味のない人は受け入れられない。あくまで今、世の中で語られている多様性の多くは『強いチーム』をつくるためのものであって、不寛容を寛容するという、本当の意味での多様性というのは、議論の土台にさえ乗っていない気がするんです

「日本の組織や社会というのは、『上』と『下』という感覚がすごく根付いている気がします。上というのは、学校では校長先生や教員ですね。変えるのは上の人たちで、下の人は関わったとしても変えられっこない。そうした、『私たちには所詮、変えることなんてできない』という考えが意識のところまで根付いてしまっているんだと思います」