もちろん、コーヒーを提供するだけではなく社交の場となるよう工夫していました。トランプや文房具、国内外の書籍、ビリヤードまでそなえた最先端の喫茶店です。しかし、残念ながら経営がうまくいかず、4年後の1892年に廃業することとなってしまいました。早すぎた、時代を先取りしすぎたということなのでしょう。

「銀ブラ」の語源は
喫茶店にあった

 可否茶館はうまくいきませんでしたが、その後、木村屋や不二家といった菓子店併設の喫茶室や、政府が牛乳の摂取を奨励したために激増した「ミルクホール」と呼ばれる簡易な飲食店にてコーヒーが提供されるようになっていきました。

 そして1911年に銀座にオープンしたのが「カフェー・プランタン」。パリのカフェのように文人や画家たちによる文学批評・芸術談議ができる場所を作りたいとして、洋画家の松山省三、平岡権八郎らが開業しました。

 コーヒーのほか、洋酒や軽食も提供し、黒田清輝や森鴎外、永井荷風、谷崎潤一郎などの文化人が集う店となりました。当初は会員制だったこともあって、一般客には敷居の高い店だったようです。この点、ロンドンのコーヒーハウスがクラブになったのと似ています。

カフェー・プランタン店内の様子本書より。カフェー・プランタン店内の様子

 一方、大衆を集めたのは、同じ年、同じ銀座の地にオープンした「カフェーパウリスタ」です。開業したのは「ブラジル移民の父」と呼ばれた実業家、水野龍。その頃の日本は食糧難と働き口の不足に困っており、一方ブラジルでは「奴隷解放宣言」によりコーヒー農園で働いていた奴隷たちが解放され、働き手が不足していました。水野氏は、そんな状況にあった両国をつなぎ、ブラジル移民を初めて手がけた人物なのです。

 パウリスタの開業は、移民政策への貢献の見返りとして、水野氏がブラジルのサンパウロ州政府からコーヒー豆を無償提供してもらったことがきっかけです。

 サンパウロ州政府がコーヒー豆を無償提供したのは、日本でのコーヒー普及のためという意味もあったようです。その結果、パウリスタでは非常に安くコーヒーを提供することができたのです。なお「パウリスタ」とは、「サンパウロっ子」という意味です。ブラジルを結節点として、コーヒーの世界史と日本史がここでつながりました。