開店後は万札がレジから溢れ、
「アメーバーのごとく」次々と出店

 さまざまな軋轢や摩擦を生み出しつつも、まんだらけの業績はどんどん上がっていった。古川さんが振り返る。

「2階の東通りの店を始めて2年後には、今度は3階のいちばん北側の物件が空いたという連絡をもらってすぐに契約しました。ここは約9坪で、家賃は25万でした。それからしばらくすると、3階のメイン通りのテナントを買わないかという連絡が入りました。それが84年だったと思います。80年にオープンして、82年に3階北側、84年に3階中央と、この頃は2年ごとにぽんぽんと拡大していきました」

 広さは20坪、販売価格は5000万円だった。

 このとき、それまでの賃貸ではなく、初めて購入する決意をした。時代はバブル景気が訪れようとしていた。時代の後押しもあった。

「いくら儲かっていたとはいえ、この頃の私には5000万もの大金を用意するのはさすがに不可能でした。でも、当時の不動産屋さんに相談すると銀行がお金を貸してくれて、とんとん拍子に購入が決まったんです。いや、そもそも西武信用金庫から“こういう物件があるんだけど買わないか?”と連絡がきたような気がするな」

 仲介役となったのは西武信用金庫だった。現在も早稲田通りに店舗を構えるこの信用金庫は中野ブロードウェイに進出する際に、多くの店主が世話になっているという。

 4階でユアサ工務店を経営する湯浅廣さんは言う。

「ここ中野ブロードウェイが完成するときには、旧第一銀行がメインバンクでした。でも、それ以降は館内全体の商店に関しては西武信用金庫がかなりお金を融資しています。ブロードウェイが完成した後にここに出店する人たちは、当時の第一勧銀よりも、西武信金にお世話になっていると思いますね」

「第一銀行」とは、後の第一勧業銀行であり、現在のみずほ銀行である。

 中野ブロードウェイ建設当時のパンフレットには「ブロードウェイの夢をつくる人たち」と題して、「東京コープKK」と「株式会社間組」とともに、第一銀行について次のような一文が掲載されている。

第一銀行
 日本一のアパートの出現を期待して、業界随一の伝統と信用を誇る第一銀行がこの事業をバックアップしています。お払込みは統一して新宿支店で扱います。第一銀行以外では一切取り扱いしません。