クラウド資本発「自分らしくあれ」の大号令が招いたリベラルな個人の奇妙な死クラウド資本が「自分らしくあれ」と言い始めたとき、自由というリベラルな理念は死んだ?Photo: Reuters/AFLO

『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』の著者ヤニス・バルファキス元ギリシャ財務相による連載。今回のテーマは、クラウド資本の負の側面です。GAFAに象徴されるビッグテック隆盛に伴い形成された新しい形の資本が「自分らしくあれ」と言い始めたとき、リベラルな個人は「奇妙な死」を迎えたと警鐘を鳴らします。

 私の父は典型的なリベラルな個人であり、生まれながらのマルクス主義者である息子からすれば、見事なまでの皮肉だった。生計を立てるため、父はエレウシスの製鉄所で雇い主に労働力を切り売りしなければならなかった。

 だが昼休みになると、いつもエレウシス考古学博物館の屋外の庭を満足気にうろつき回り、古代の技術者たちがこれまでの推定よりも高度な技能を有していたことを示す手掛かりを秘めた当時の石造物を見つけることに無上の喜びを感じていた。

 毎日午後5時きっかりに帰宅すると、遅いシエスタ(昼休憩)をした後で、いそいそと家族との団らんに加わり、研究成果を学術論文や書籍にまとめる準備をしていた。つまり、父の工場における生活とプライベートとは、きっちり切り離されていた。

 そこには、時代の空気が反映されていた。他の点はさておき、当時の資本主義は、限度こそあれ、人間に自分自身に対する主権を与えていた、と私たちのような左翼でさえ考えている。上司のためにどれほどの重労働をしていたとしても、その生活の少なくとも一部から仕事を追い出し、その中では自律し、自己決定でき、自由でいられた。

 真の意味で選択の自由を持つのは金持ちだけで、貧乏人の自由とはおおむね「敗北する自由」であり、最悪の奴隷状態とは、自らを縛る鎖を愛するようになった状態――それは分かっていた。それでも私たちは、自分たちの限定的な自己所有権を楽しんでいた。

 現代の若者たちは、これほどわずかなお情けさえ拒否されている。最初の一歩を踏み出した瞬間から、自分自身を1つのブランドであると考えるよう暗黙のうちに教え込まれるが、そのブランドの評価は、それがどの程度「ホンモノ」だと見てもらえるかによって決まってくる(評価するのは、将来の雇用主も含まれる。ある大学院生は私に、「本当の自分を見つけるまでは、誰も自分に仕事を与えてくれない」と語った)。

 今日のネット社会では、自分のアイデンティティを売り物にする以外に道はない。プライベートな生活をキュレート(収集、選別、編集、共有など)することは、若者たちにとって最も大切な仕事の一つになっている。

 何か画像を投稿する、動画をアップロードする、映画の感想を投稿する、写真やツイートをシェアする――その前に、その選択が誰を喜ばせ、誰を疎外するのか気を遣わなければならない。自分の中にある「本当の自分」の何を最も魅力的に見せられるのか、何とかして考え出さなければならない。だから、ネット上のオピニオンリーダーたちの平均的な意見はどんなものになるか、それに比べて自分の意見はどうなのか、ひっきりなしに検証を続ける。

 あらゆる経験を切り取ってシェアすることが可能だから、シェアするべきかどうか問い続けて消耗する。実際にはその経験をシェアする機会などなくても、その機会を想像することは簡単で、実際に想像してしまう。目撃されるか否かにかかわらず、あらゆる選択が、慎重なアイデンティティ構築の作業になっている。