「あのときの不幸」は、「今の幸せ」を得るために、どうしても必要だった

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 すべての人が指をさして「これが幸せだ」と言えるものが、この世に、あるでしょうか?

 たとえば、AさんとBさんにとって「幸せ」なことでも、Cさんにとっては、「幸せではない」かもしれません。

 そう考えると、100%すべての人が、絶対的な価値を持って「これが幸せだ」と思えることは、地球上には存在しない。それが私の結論です。

 幸せは、「感じた人にのみ存在」します。感じた人にのみ、「幸せ」が生まれるのです。

 同様に「不幸」という現象も、この世には存在しません。

 たとえ、どれほどお金を持っていても、その人が「不幸だ」と思っていれば、その人は「不幸な人」になります。

 逆に、お金がなくても、環境に恵まれていなくても、本人が「幸せだ」と感じていれば、それが幸せになるのです。

 今日、自分にとって「幸せだ」と思える出来事があったとします。すると、「昨日までのケンカや争い、病気や事故なども、すべてが『今日の幸せ』に至るための要因だったこと」がわかります。

 逆に、今日、「私ほど不幸な人はいない」と思うと、「昨日までの出来事が、すべて『今日の不幸』の原因」になってしまいます。

 昨日までは「自分は不幸だ」と思っていても、今日、よいことがあれば「私ほど幸せな人はいない」と思い、昨日までは「自分は幸せだ」と思っていても、今日、悪いことがあれば「私ほど不幸な人はいない」と思います。

 つまり、「幸」と「不幸」は、オセロゲームのように「白」と「黒」が、すぐにひっくり返るものなのであり、「私の気分ひとつ」で決まります。

「幸せ」とは、「幸せという現象」があるわけではなく、「そう思う心があるだけ」です。

 今日が「幸せ」と思えるのなら、その「幸せ」を連れてきた過去に対しても、感謝できるのではないでしょうか。

 人間は未熟なので、目の前の出来事について、「よい、悪い」「幸、不幸」と評価してしまいがちですが、長い目で見ていくと「今、起きている悪いこと」が、不幸なことだとは言い切れません。

 なぜなら、のちに幸せを感じたとき、「今の状況に至るためには、その出来事が必要だった」「あの体験のおかげで、いろいろな人に出会えた」ということに、気づけるからです。

 人生は、「前半分と後ろ半分」が「ワンセット」になっていて、前半の部分がなければ、後半の「幸せ」を感じることもできません。

「空腹」という前半の現象がなければ、後半に「おいしい」と感じることもありません。

「幸せ」という現象を「私」が感じるためには、その前半分の現象として、一般的に「つらく、悲しく、苦しい」といわれていることが、どうしても必要だったのです。

 そのことがわかったら、起きている現象について、一つひとつ「よい、悪い」「幸、不幸」と、評価・論評しなくなるのではないでしょうか?