立件の容疑が
「たった1枚の付箋」の訳

 本事件では、1920人分の個人情報を持ち出したとのことだが、立件の容疑は「たった1枚の付箋」の窃盗である。ここに捜査機関の苦労がある。

 実は、窃盗における財物は「有体物」であり、データなど情報は財物とはならない。そのため、登記簿をコピーする行為や書き写す行為は窃盗では立件できない。窃盗自体の法定刑は10年以下の懲役または50万円以下の罰金であるが、本件被害品が付箋1枚であれば被害は僅少であり、起訴されたところで極めて軽い処分となるだろう(コピーした登記簿自体の窃盗は、立証できなかったと推察される)。

 そして、捜査機関として不正競争防止法(営業秘密の侵害であれば10年以下の懲役もしくは2000万円以下の罰金、またはその両方)での立件を検討するが、端的に言えば不正競争防止法が保護するのは営業秘密などであり、個人情報は対象とならない。

 よって、立証がなされた付箋1枚という窃盗での立件になるわけだ。しかし、極めて軽い刑罰であれば、抑止は働かない。

 日本ではかつて1985年に自民党が制定を目指した「スパイ防止法案」が廃案になった経緯があるが、仮に「スパイ防止法」があれば、本件は防げたのだろうか。

 まず、自民党案では、そもそも防衛機密のみが対象とされており、個人情報は対象ではないと推察されるため、今後スパイ防止法を検討する上での重要な論点だ。

 防止の観点で申し上げれば、同法案では「(1)外国に通報する目的をもって(または不当な方法で)、防衛秘密を(2)探知し、又は(3)収集した者」とされている。

 仮に防衛機密だけではなく個人情報を含むと定義しても、本事件のように東京都での認知が遅れれば、(2)探知行為を東京都や捜査機関が認知しないまま、(3)収集行為が完了してしまう。

 そうすれば、外部への流出行為も、都や捜査機関が認知した段階で“事後”となっている可能性が高い。

 また、外国に通報する目的を裏付ける行動や通信関連の証拠収集は速やかに実施しなければならないため、認知の遅れにより、(1)外国に通報する目的の立証も極めて難しくなる。

 そうすると、スパイ防止法が存在しても、東京都や捜査機関による認知が遅れている段階で、情報漏洩を防止するような早期検挙は難しい。

 スパイ防止法案で想定された“重罰(無期懲役)”が本事件の防止策となり得るが、それは一定の抑止力はあるだろう。しかし、本来の諜報活動の場合、そのリスクを乗り越えて行われるため、有効な防止策とはならないだろう(ただし、立件する上では有効な法であるのは言うまでもない)。