曽祖父は“裏切り者”だったのだろうか?村長としてどんな役割を果たしたのだろうか?ほとんどの移住者は旧谷中村近辺への移住だったのに、近助たちはなぜ遠いサロマだったのか?北海道で何をしようとしたのか?僕の母や叔父・叔母たち、つまり近助の孫たちはなぜ近助を「疫病神」と呼んで嫌っていたのか?

 遅まきながら足尾鉱毒と谷中村事件について調べ始めると、謎は深まるばかりだった。検索すれば関連書は数百にもなる。しかしそれらは主として田中正造の“不屈で英雄的なたたかい”を中心にした抵抗運動、反政府闘争として語られ、正造の死亡で終わっていて、個々の村人の生活や家族、歴史に関するものはほとんどなかった。

 日本の近代史を支える古河銅山をめぐる複雑で多面的な大事件である。農省務大臣・榎本武揚や谷干城も視察に訪れたが、農民を守れずに辞職した。足尾鉱毒事件・谷中村事件が語られるときは、いつも「政府につくか農民につくか」、「田中正造の正義派か、村を出る売村派か」という政治的な評価がついて回り、ここに登場する人々は政治的に描かれ、具体的な個人の視点、生活の立場で記録されることはほとんどなかった。

足尾銅山と鉱毒反対運動の真実
国策と故郷の山河の狭間で村人は葛藤する

 古河市兵衛が経営する足尾銅山は、明治21年の英ジャーデン・マセソン商会との銅の全額買い取り契約によって大増産が始まった。明治16年に1000人あまりだった労働者は、明治23年には1万6000人になり、産出量は全国の4分の1となる。銅は輸出総額の10%を占め、有数の産銅国として産業革命と資本主義の成立に大きく貢献していったが、その頂点にあったのが足尾銅山だった。

 同じ明治23年8月の渡良瀬川大洪水で、鉱毒被害が一気に拡大した。坑道からの銅、硫酸銅など有毒物質を含む地下水が流出し、それに乗じて大量の鉱滓が川に棄てられた。さらに精錬の燃料として足尾の山林を乱伐したため、洪水は大規模化し、被害は渡良瀬川流域一帯から東京にまで広がった。冠水した稲は穂を出さず、桑は枯れ、健康被害が広がった。窮乏した人たちは税金も納めることができず、選挙権(国税15円以上)、公民権(同2円以上)を失い、税収のなくなった村々は破産し、死者は1000人を超えた。

 僕の母方・茂呂家は栃木県下宮村(後・谷中村)の名主だった。幕末に生まれた曽祖父・近助(嘉永5年・1852年)は、明治33年、最後の民選村長になり、近隣の名主たちとともに流域農民たちの先頭に立って、洪水対策、鉱毒被害の調査や、政府への鉱毒停止の請願運動に年中駆け回っていた。生活や仕事のことは家族や雇人に任せていたのだろう。