こうした村民に寄り添い、ともに鉱毒被害にたたかったのが田中正造であることは、教科書などに書かれている通りだ。天保12年(1841年)下野国小中村(現・佐野市)の名主の家に生まれた正造は、維新後、自由民権結社「嚶鳴社」に所属し、『栃木新聞』(現『下野新聞』)の編集長になって国会開設を訴えた。民権運動を強権で弾圧した三島通庸県令と対立し、「加波山事件」で逮捕されるなど、燃え上がる自由民権運動の先頭に立った。県会議長を経て明治24年、衆議院議員になり鉱毒被害民の「押出し」を支援して国会で質問を重ねる。

 明治31年には2つの民党が「隈板内閣」を組織して、田中正造は“われわれの内閣”だと喜んだが、民権派の大きな期待を集めた内閣はすぐに内紛で瓦解した。この間の明治32年、正造は「足尾銅山鉱毒被害民救護請願書」を大隈に出すものの、政争の中で無視されて終わった。

 明治33年(1900年)2月13日、鉱毒反対運動の拠点・雲龍寺に集結した1万2000人ともいわれる流域住民「押出し」に対し、利根川べり・川俣(現・明和町)で待ち受けた警官隊は、一斉に捕縛にかかった。「川俣事件」である。曽祖父・近助も谷中村から唯一人捕まり、兇徒聚集罪で起訴される(後に無罪)。

 事件の二日後、田中正造は国会で有名な「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問」を行った。

「民を殺すは国家を殺すなり。法をないがしろにするは国家をないがしろにするなり。皆自ら国をこぼつ(打ち砕く)なり。財用をみだり民を殺し法を乱して而して亡びざる国なし。之をいかに」、と。

 山縣首相は「意味不明」と答弁を拒否した。

 政府は翌月、治安警察法を作って社会主義者や民衆を力づくで抑えにかかった。このあたりが明治国家が“専制国家になっていった分水嶺”かもしれない。正造は翌年議員を辞職。幸徳秋水に書いてもらった直訴状を、決死の覚悟で天皇の馬車に差し出したが、狂気扱いされただけだった。以降、正造は谷中村に住み込んで村人たちと闘い続ける。

民権政治家たちに見放されるなか
谷中村に残る判断は適切だったのか

 日露戦争に突き進む明治政府は次第に猛々しくなっていき、鉱毒問題を治水問題にすり替えて、谷中村を遊水地にすることを決め、明治39年ついに残った農家16戸を強制破壊した。村を追われた人たちは、同じ寺の檀家や神社の氏子同志で相談したり、あるいは遠い伝手を頼って、それぞれに開拓・移住先を探して村を出なくてはならなかった。