書影『百姓・町人・芸人の明治革命』『百姓・町人・芸人の明治革命』(現代書館)
津田正夫 著

 自由民権の政治家たちはどこにいってしまったのか?山縣内閣の農商務大臣を務めたのは、あの坂本龍馬と海援隊で行動をともにした陸奥宗光だったが、今は息子・潤吉を足尾銅山の経営者・古河市兵衛の養子にしていた。『大阪毎日新聞』などで言論人として台頭した原敬は、福澤諭吉系の民権論者で初の“平民宰相”として期待されたが、古河鉱業の副社長に就き、谷中村に土地収用法を適用した閣僚になった。

 近助は鉱毒反対運動のため財産も使い果たし、活動資金を親類縁者に頼って回らざるをえなかった。こうした混乱の中、近助の長男・蔵一郎(祖父。明治9年生)が日清・日露戦争に駆り出されたことは、茂呂家には大きな打撃になった。

 明治27年(1894年)、蔵一郎が18歳で日清戦争に応召したときは、谷中村は鉱毒で困窮し、385戸の半分が税を収めることができず公民権停止に追い込まれていた。流域の他の村々の名主と一緒に、茂呂親子も洪水対策、鉱毒対策に駆け回っていたに違いない。鉱毒は激しくなるばかりだった。明治37年、28歳の蔵一郎は後ろ髪をひかれる思いで日露戦争に再度応召され、従軍中の旧満州から父・近助に対し、鉱毒事件に深入りしないよう忠告の手紙を出している。

「古語にも“恒産なければ恒心なし”とか、己に恒産を失し候ものが、徒に忠義立ていたし候は、己の苦労を増すばかりか世人の笑いを招くのみにこれあり候間、(中略)ツマラヌ他人事には当分手出しなされぬよう呉々祈り上げ候。陣中憂うるところ只、これのみ」。

 村に降りかかる鉱毒への抗議活動を「ツマラヌ他人事」と指摘して、処世第一にするよう諫言している。しかしすでにこの年、栃木県議会は秘密裏に谷中村買収を決め、近助は謀略的な事件で収監されてしまう。ついに明治39年、政府は土地収用法を適用して谷中村に残った人々の住居を強制的に破壊した。買収に応じなかった16戸と田中正造は、堤防にへばりついて抵抗を続けた。

 その後の16戸の闘いは多くの本や映画になっているが、警官のサーベルに威嚇され、正造に「裏切り者!」と呼ばれながら、村を追い出されていく大多数の農民たちの記録はあまりに少ない。祖父・蔵一郎が存命のうちに、これに気づいて聞いておけばよかった、との悔いは深い。