人はなぜ病気になるのか?、ヒポクラテスとがん、奇跡の薬は化学兵器から生まれた、医療ドラマでは描かれない手術のリアル、医学は弱くて儚い人体を支える…。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、X(twitter)で約10万人のフォロワーを持つ著者(@keiyou30)が、医学の歴史、人が病気になるしくみ、人体の驚異のメカニズム、薬やワクチンの発見をめぐるエピソード、人類を脅かす病との戦い、古代から凄まじい進歩を遂げた手術の歴史などを紹介する『すばらしい医学』が発刊された。池谷裕二氏(東京大学薬学部教授、脳研究者)「気づけば読みふけってしまった。“よく知っていたはずの自分の体について実は何も知らなかった”という番狂わせに快感神経が刺激されまくるから」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。
「アドレナリン」の発見
副腎は左右の腎臓の上に一つずつある小さな臓器で、「皮質」と「髄質」という二つの部分に分けられる。
かつてより、動物の副腎髄質の成分は、血圧を上昇させたり、血管を収縮させたりする作用を持つことが知られ、科学者の関心の的であった。だが、その正体は長らく不明であった。
一九〇〇年七月、化学者、高峰譲吉と助手の山中啓三は、ニューヨークの研究室で、ウシの副腎からこの物質の抽出に初めて成功する。
高峰は、副腎の英語「adrenal gland」にちなみ、この物質を「アドレナリン(adrenaline)」と名づけた。実はこれが、人類が初めて手にしたホルモンであった。 ホルモンとは、さまざまな臓器で産生されて血液中を巡り、ごく微量で体の機能を調節できる情報伝達物質の総称だ。
これ以後多くのホルモンが人体から発見されることになるが、アドレナリンはその嚆矢である。
アドレナリンとファイザー社
高峰はアメリカで特許を申請し、一九〇一年、アメリカを代表する製薬メーカー、パーク・デイビスと協力してアドレナリンの商品化に成功した(1)。
一九〇二年には日本でも販売を開始し、その後アドレナリンは世界的に普及することになる。パーク・デイビスは、のちのワーナー・ランバート、現ファイザーである(二〇〇〇年に吸収合併)。
高峰の発見から百年以上が経った今も、アドレナリンは医療現場で欠かせない医薬品である。
例えば、医療ドラマでおなじみの心肺停止患者への心肺蘇生処置では、アドレナリンを投与するシーンがよく描かれる。
アドレナリンは心臓に鞭を打ち、血管を収縮させて血圧を上げる薬だからだ。「アドレナリン」という言葉は一般にも広く知られ、興奮したり恐怖を感じたりした際、俗に「アドレナリンが出る」などと表現することもある。
アドレナリンの効用
アドレナリンは交感神経の刺激によって副腎髄質から分泌され、心拍数や血圧を上昇させる、血管を収縮する、瞳孔を開く、といった作用を持つホルモンだ。
まさに、日常会話で使うところの「アドレナリンが出る」は、医学的にも正確といってよい表現である。
アドレナリンが分泌されるシチュエーションは、「fight or flight」という格言で表現される。
「fight」は戦うこと、「flight」は逃げることだ。偶然だが、日本語にも良い訳がある。「闘争か逃走か」である。
アドレナリンか、エピネフリンか
実は医療現場では、アドレナリンのことを「エピネフリン」と呼ぶ人も多い。これは、二〇〇六年に医薬品の正式名称を定める日本薬局方(厚生労働大臣が公示する文書)が「アドレナリン」を採用するまで、医薬品名が「エピネフリン」であったためだ。
この名残は今でも残っていて、重度のアレルギーであるアナフィラキシーに使用する皮下注製剤「エピペン」の「エピ」は、「エピネフリン」の名前に由来する。
高峰らと同じ頃、アメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学の研究者ジョン・ジェイコブ・エイベルは、ヒツジの副腎から活性成分を抽出したとして、この物質に「エピネフリン(epinephrine)」と名づけた。
「エピ(epi-)」は「上」を意味する接頭辞、「ネフリン(nephrin)」は「ネフローゼ」などと共通の語源を持つ、腎臓に由来する言葉だ。
副腎は腎臓の上にある臓器であるために、こう名づけられたのだ。実はこのときの「エピネフリン」は、高峰らの抽出した純粋なアドレナリンとは異なり、ベンゾイル基という余分な構造が結合したものだった(2)。
だがアメリカではその後、エイベルの業績を重んじて、純粋な副腎髄質ホルモンをエピネフリンと呼ぶようになった。
結果的に、今では「アドレナリン」と「エピネフリン」は同義の単語として扱われている。
日本の医療現場では長らく、医薬品名としてはアメリカに準じた「エピネフリン」が採用されてきた。一方、ヨーロッパでは高峰らの呼称「アドレナリン」が採用されている。
前述の通り日本でも、二〇〇六年にようやく真の発見者の命名が採用されたというわけだ。
夏目漱石と「タカジアスターゼ」
高峰が歴史に名を残す所以となった医薬品は、アドレナリン以外にもう一つある。それが「タカジアスターゼ」である(3・4)。
夏目漱石の小説『吾輩は猫である』の登場人物、珍野苦沙弥先生は胃腸が弱く、主人公である猫の目線でこう描かれている。
「彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活溌な徴候をあらわしている。そのくせに大飯を食う。大飯を食った後でタカジヤスターゼを飲む。飲んだ後で書物をひろげる。二、三ページ読むと眠くなる。涎を本の上へ垂らす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。」
この後、「教師というものは実に楽なものだ。人間と生れたら教師となるに限る。」と風刺的な皮肉が続く。
ここに出てくる「タカジヤスターゼ」が、高峰の発明した大ヒット大衆薬タカジアスターゼのことだ。
アメリカで大ヒット
一八九〇年に家族とともにアメリカに渡っていた高峰は、一八九四年、日本酒の製造に使われるカビの仲間、麹菌から消化酵素ジアスターゼを抽出し、これを「タカジアスターゼ」と名づけた。一八九五年、パーク・デイビスはタカジアスターゼを胃腸薬としてアメリカで発売し、爆発的な人気を誇った。
このときに築かれた高峰とパーク・デイビスの関係が、のちのアドレナリン発売にも繋がった。
アメリカでの発売から遅れること三年、日本でタカジアスターゼが発売されたのは、一八九九年である。タカジアスターゼを日本で普及させるため、一八九八年に横浜に誕生した会社「三共商店」は、のちの製薬メーカー三共株式会社であり、今の第一三共株式会社である。
そして、タカジアスターゼは今でも「新タカヂア錠」や「第一三共胃腸薬」の成分として我が国で愛用されている。高峰は、三共株式会社の初代社長でもある。