人はなぜ病気になるのか?、ヒポクラテスとがん、奇跡の薬は化学兵器から生まれた、医療ドラマでは描かれない手術のリアル、医学は弱くて儚い人体を支える…。外科医けいゆうとして、ブログ累計1000万PV超、X(twitter)で約10万人のフォロワーを持つ著者(@keiyou30)が、医学の歴史、人が病気になるしくみ、人体の驚異のメカニズム、薬やワクチンの発見をめぐるエピソード、人類を脅かす病との戦い、古代から凄まじい進歩を遂げた手術の歴史などを紹介する『すばらしい医学』が発刊された。池谷裕二氏(東京大学薬学部教授、脳研究者)「気づけば読みふけってしまった。“よく知っていたはずの自分の体について実は何も知らなかった”という番狂わせに快感神経が刺激されまくるから」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。

【毎年5万人超が死亡】「水が怖い…」致死率ほぼ100パーセント「恐水病」の衝撃の正体Photo: Adobe Stock

奇妙な症状

 2020年のことである。ある30代の男性が両足首の痛みと腰痛を感じ、近くの診療所を受診した。

 彼は3ヵ月前にフィリピンから来日したばかりだった。処方された痛み止めを使って様子を見ていたが、翌日になると奇妙な症状が現れた。

 日本にいないはずの妻の姿が見える。そう訴え始めたのだ。幻視だった。症状は日を追うごとに悪化した。4日後には、夜中に妻を探し回って近所を徘徊し、会話の辻褄も合わなくなった。

水が怖い

 友人や同僚の助けを得て医療機関を受診したのは、症状が現れて7日後のことだった。原因は一体何なのか。精密検査が進められた。決め手になったのは、「水を怖がっていた」というエピソードと、来日5ヵ月前にフィリピンで野犬に足を咬まれたという事実だ。

 入院して3日目、国立感染症研究所に送られた唾液のサンプルから、原因となったウイルス遺伝子が検出された。狂犬病ウイルスであった。狂犬病は恐ろしい感染症で、致命的な脳炎を引き起こす。ひとたび発症すると、致死率はほぼ100%とされ、有効な治療は存在しない。

「水を怖がる症状」は狂犬病に特徴的で、古代ローマの医学書『医学論』にも「恐水病(hydrophobia)」として記録のある、古くから知られたものだ。水を飲もうとすると、神経が過敏になっているために喉の筋肉が痙攣し、患者は水を飲むことに過剰な恐怖を抱く。狂犬病ウイルスは神経に侵入し、その機能を侵すからだ。

毎年5~6万人が死亡

 入院後も病状はますます進行し、入院27日後、男性は亡くなった。日本では2006年以来、実に14年ぶりに確認された狂犬病発症例であった。上記の経過は、国立感染症研究所のホームページや、論文等で詳細に報告され、誰でも読むことができる(1-3)。

 世界では毎年、狂犬病で5万~6万もの人が死亡する。その大半は、狂犬病にかかった犬などの哺乳類に咬まれたことが原因だ。一方、日本では1957年に狂犬病が撲滅され、その後は輸入例が4例あるだけである。日本は、世界的にも珍しい、狂犬病が蔓延していない地域の一つだ。

 実際、日本以外で狂犬病が蔓延していない地域は、アイスランド、オーストラリア、グアム、ニュージーランド、ハワイ、フィジー諸島の6地域しかない。 「動物に咬まれても狂犬病の心配をしなくていい」という我が国の環境は、世界的には極めて恵まれたものなのだ。

 1950年の狂犬病予防法公布後、防疫対策のために多くの犬を犠牲にしながら、そして、先人たちが命の危険に晒されながら何とか築き上げた「安全」が、飼い主の登録やワクチン接種、厳密な動物検疫によって何とか維持されてきたのである。

致死的なウイルスは、すぐそこにある

 例えばフィリピンでは、毎年約250例の狂犬病患者が発生する(1)。日本から一歩外に出れば、致死的なウイルスと日常的に隣り合わせである。当たり前の「安全」にどっぷり浸かっている私たちは、ともすれば、その貴重さを忘れてしまうことがある。

 だが、この恵まれた環境を次の世代に引き継ぐには、感染症に関する正確な知識と、市民の努力が欠かせないのである。

【参考文献】
(1)厚生労働省「フィリピンから来日後に狂犬病を発症した患者(輸入感染症例)について」(https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_11464.html)
(2)国立感染症研究所「日本国内で2020年に発生した狂犬病患者の報告」(https://www.niid.go.jp/niid/ja/rabies-m/rabies-iasrd/10301-494d01.html)
(3)「2020年の輸入狂犬病の発生について」Neuroinfection,27(1), 124-130, 2022

(本原稿は、山本健人著すばらしい医学に関連した書き下ろしです)

山本健人(やまもと・たけひと)

2010年、京都大学医学部卒業。博士(医学)。外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医、感染症専門医、がん治療認定医など。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は1000万超のページビューを記録。時事メディカル、ダイヤモンド・オンラインなどのウェブメディアで連載。Twitter(外科医けいゆう)アカウント、フォロワー約10万人。著書に18万部のベストセラー『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)、『医者が教える正しい病院のかかり方』(幻冬舎)、『もったいない患者対応』(じほう)、新刊に『すばらしい医学』(ダイヤモンド社)ほか多数。
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