人を動かすには「論理的な正しさ」も「情熱的な訴え」も必要ない。「認知バイアス」によって、私たちは気がつかないうちに、誰かに動かされている。人間が生得的に持っているこの心理的な傾向をビジネスや公共分野に活かそうとする動きはますます活発になっている。認知バイアスを利用した「行動経済学」について理解を深めることは、様々なリスクから自分の身を守るためにも、うまく相手を動かして目的を達成するためにも、非常に重要だ。本連載では、『勘違いが人を動かす──教養としての行動経済学入門』から私たちの生活を取り囲む様々な認知バイアスについて豊富な事例と科学的知見を紹介しながら、有益なアドバイスを提供する。
「目の前のことを優先してしまう」脳の仕組みを知る
自分に対する予測の甘さは、人が自分の幸福度をどう見積もるかにも当てはまる。
「宝くじに当選する」「死ぬまでにどうしても訪れてみたかった場所を旅行する」「大病を患う」といった大きな出来事から受ける影響は、実は私たちが思っているほど大きくはない。
人は重大な出来事がもたらす影響の大きさを、過大評価してしまうのだ。
たとえば、乳房切除手術を受けるのは大きな出来事だ。けれども、乳房を片方失った人も、数年後には他の人と同じくらいの幸福度に戻ることがわかっている。
だが、「終わりよければすべてよし」とはいかない。
私たちは、食器洗いや通勤といった日常的な些事によって自分がどれくらい不幸になっているかを逆に過小評価してしまっている。
これも、人が将来の自分の考えを予測するのが苦手なために生じる現象だ。認知バイアスのなかでも時間に関するものが特に手ごわいのはこのためだ。
人はジャングルをかき分け進むときも、スーパーで買い物をするときも、目の前にごほうびを見つけたとき、たとえそれがどんなに小さなものであっても、誘惑に抗うのが得意ではない。
マシュマロテストの例からもわかるように、人間の脳は将来得られる報酬よりも、今、目の前にある報酬をはるかに高く評価するようにできている。
太古の昔、人類は目の前の食べ物をその場で即座に掴みとらなければ生きていけなかった。
その厳しい生活には、“目の前のものを我慢すれば将来得をする”といった計算が入り込む余地はなく、今を優先させなければならなかった。
人類はこうした祖先のDNAを受け継いでいる。だが、自然界を生き延びるために進化した人間の脳は、現代人の生活に錯覚や混乱を引き起こしている。
私たちが嫌なこと(たとえば、貯金)を延々と先延ばしするのも、時間の見積もりが甘く計画通りにうまく行動できないのも、帰路がいかに楽しくスムーズかという印象に旅行全体の感想が大きく左右されるのも、すべてそのためだ。
「現在バイアス」から抜け出すのは、とても難しいのだ。
(本記事は『勘違いが人を動かす──教養としての行動経済学入門』から一部を抜粋・改変したものです)