目次は、読む順番を決めるうえでも活用できます。目次に目を通したら、順序を無視して好きなところから読んでいいのです。

 小説はともかく、ビジネス書やハウツー本などは、興味がない部分は目次を見た時点で「ここは切り捨てよう」と判断できるのです。小説がカオス(混沌)であれば、新書はいわばコスモス(秩序)です。このコスモスに属する書物であれば、ここでいう「目次活用法」が使えるのです。

 本というのは、内容を象徴するタイトルがいちばんに目に入り、次にそれを補足するキャッチコピーなどが帯に記されています。そして、筆者自身がその本で伝えたいことがまとめられた「まえがき」に続いて目次が現れます。

 したがって、ここまで読むだけで、本の構造はおおむね理解できるわけです。書店にいられる時間が30分なら、優に5~6冊の本をチェックでき、買いたい一冊をセレクトできるのです。

難しい本は
「わからなさ」を楽しむ

 難しく、わかりにくい本に出合うと、人はある種のパニックを起こし、その本から逃げようという気持ちになりがちです。

「わからない」には、(1)単純に知識が不足しているから、(2)内容が奥深かったり表現が抽象的だったりするために世界観がつかめない、(3)筆者の文章や説明が単に下手だからという場合があります。

 専門書を読むには最低限の知識を覚えておくしかありませんし、筆者の文章が下手ならあきらめるしかありませんが、ここで特にお伝えしたいのは、(2)の「わからない」との向き合い方です。こういうとき、「わからなさ」を楽しむくらいの気持ちが大事です。

 宮沢賢治の作品は、現代のビジネス書のように、一読して意味が伝わる表現ではありませんが、あの空気観が彼の文学の最大の魅力です。童話『やまなし』に出てくる「クラムボン」の正体は最後まで説明されていませんし、『グスコーブドリの伝記』も現実に存在しない国が舞台であり、読む側は激しく想像を掻き立てられ、どこか夢心地になります。

 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』も、蜃気楼の村を舞台に、捉えようのない世界が展開され、心が霧の中に包まれたような感覚すら覚えます。そしてそれを、私たちは「わからない」にもかかわらず、心地いいと感じることができるのです。どちらも、作者が紡ぐ世界観に、身を委ねるような体験といえます。難しくわかりにくい本は、それを楽しめばいいということを知っておきましょう。

 ちなみに、読んだ本と自分の世界観が、必ず同じになるというわけではありません。文章に無理に同調する必要はありません。わからない、難しすぎると感じる部分を無理にわかった気にならず、わからなさを受け入れるのもひとつの読書法です。