日ごろやらないことを私がやるものだから、つれあいは「お、こいつもやるんだ」と、驚いたようだ。そして喜んだ。人間、根は人に甘えたいものだし、人に尽くしてもらうと嬉しいものである。だからこそ、これを習慣にしてはいけないと気づいた。

「いまはあなたが病気だから私が料理を作り、掃除をしているけれど、これは例外だよ。本来の私の仕事じゃないよ。元気になったら元通りだよ」 と、きっぱり言った。

 言葉通り、元通りになった。

 共に暮らす身として、助け合うべきときには助け合いたい。人間、生きていれば、 心や体が弱ることもある。そういうときに助け合うのは、お互い様であろう。言ってみれば異常時であり、緊急時である。

 しかし、それが日常になりたくはない。平時が戻れば、自分の足で立つ、「個」で いなければならないと思う。

家族であっても
「義理」で付き合わない

 知人の編集者には、自分の結婚相手よりも、結婚相手の親や親戚といった家族が好きだから結婚した、という女性がいる。

 結婚は「家(家族)」対「家(家族)」という考えの持ち主なのだろう。

 私にはそういう考えは一切ない。『家族という病』に書いた通り、家族ほど煩わしく、疑わしいものはないと思っている。この本は思いがけずベストセラーになり、家族関係に悩んでいる人が世の中にいかに多いか、思い知らされた。

 私は「家族」という単位が苦手である。結婚はあくまでも、「個人」と「個人」の 問題だととらえている。であれば、結婚したからといって、つれあいの家族と付き合わねばならないという意識はなかった。

 自分の家族や親戚でも同様である。

 祖父母の家には親戚一同が会するような広い母屋があった。母屋の前には池のある、よく手入れされた広い庭が広がっていた。そこに年に2回、夏と冬に集まる。

 私も1、2度行った記憶があるが、付き合いの悪さは子どものころからで、誰かと親しく話をした記憶はほとんどない。ただ、庭の緑や花が美しかったことだけよく覚えている。体が弱かったから、親が私に、もっと参加しろ、まして親戚と仲良くしろと無理強いすることはなかった。

 義理で人と付き合って楽しいことがあるとは思えないのだ。

 結婚前、つれあいの親には、一度だけ会った。文部官僚の義父は酒好きな寡黙な人で、専業主婦の義母は賢い人だった。