「忘れてしまったことは仕方がない。できれば一からやり直したい」

 死が間近に迫っていることも、霧がかかった日にはわかっていなかったかもしれない。メメントー・モリー(死を忘れるな)という言葉があるが、人間は認知症になって、死を忘れなければ死ねないのではないかと父を見ていて思った。

 生きることは苦しい。この世に生まれたことを喜べない現実がある。それでも、現実から目を背けず、現実を受け入れ、仕方ない、生きようと思うしかない。

「やろう!」と決断するのは、「善」だと判断するからである。ギリシア語では、「善」に道徳的な意味はない。「ためになる」という意味である。誰も自分のためにならないことはしない。ただし、何が善であり、何が悪(「ためにならない」という意味)かという判断を誤ることはあるので、自分のためになると思ってしたことがためにならないことはある。

 プラトンの『国家』に次のような一節がある。

〈責任は選ぶ者にある。神にはいかなる責任もない〉(『国家』)

 プラトンは、運命は与えられるものではなく、各人が自分で選び取るものであると考えた。選択の責任は自分で引き受けなければならない。選択から帰結する結末は自分が引き受けるしかない。

 子育て、看護、介護などを引き受けると、多少なりとも自分の人生が制約されたり、束縛されたりする。しかし、自分のことだけを考えるのでなく、その時子育てや介護に向き合っている家族の状況を考えたら、やはり自分が引き受けるしかない。それが皆にとって「善」であると判断するしかない。だから「仕方がない」のである。

 しかし、考えてみれば誰かと共生している以上、完全に自由に生きることはできない。それをどう捉えるかは人によって違うが、ただ苦しみであるとは限らない。

 進んで引き受けることが困難に思えても、引き受ける以上、「それで(も)よい」ではなく、「それがよい」と積極的に選択したい。