かつてナチスドイツも研究したことのあるピーター・F・ドラッカーは、こう述べている。

「プロパガンダ蔓えんの危険性は、プロパガンダが信じ込まれる、ということにあるのではまったくない。その危険は、何も信じられなくなり、すべてのコミュニケーションが疑わしいものになることにある」

 この状況は今の日本にもあてはまる。これまで「知る人ぞ知る陰謀論」だった「ネサラゲサラ」が都知事選という表舞台に浮上してきたのは、日本社会にプロパガンダが蔓延していることの証左なのだ。

「正しさ」は誰が決めるものか
「ネサラゲサラ」も思想の自由

 そう聞くと、「都知事選候補者がそんな陰謀論を唱えて出馬するなんて世も末だ」と顔をしかめる人もいらっしゃるだろうが、個人的には、木内氏のようにゲサラ法を公約にして政治活動をしようとも、その支持者の皆さんがネットやSNSで「ネサラゲサラ」という概念を広めようとも、何の問題もないと思っている。

「思想の自由」というのは、そういうものだからだ。

「陰謀論に惑わされず正しいことだけ信じなさい」という呼びかけは、一見すると、社会秩序を守るために理性的な考え方のような気がするが、その「正しい」は誰かが決めるのかという大問題がある。

 国家が「正しい」と定めたことが、必ずしも国民にとっての「正しい」とマッチしないのは、中国や北朝鮮など一党独裁の共産主義国家を見れば明らかだろう。

 それに加えて、あるグループにとって「正しくないこと」でも、別のグループにとっては「正しい」ということが、世の中に溢れている。もちろん、「あの芸能人は不倫をして週刊誌に大金を払って揉み消した」などの噂を信じてふれまわるのは、正しい、正しくない以前の名誉毀損だが、人が何を信じて生きていくのかというのは基本的に、その人の自由であって、赤の他人がとやかく言う問題ではない。