食糧である動物を狩るために危険を冒し、他のコミュニティと「食うか食われるか」の戦いに明け暮れてきたのです。常に「自分たちの存在が脅かされるのではないか」という強い不安を抱えていたため、あらゆる手を講じて防衛本能を養ってきました。「油断していると足をすくわれるんじゃないか」「裏切られるのではないか」と疑心暗鬼になったり、奪われるくらいなら奪う側に......といった思考に無意識に陥ったりするのです。

 損得勘定で物事を判断する人の末路には、深い孤独が待っています。「この人に気に入られれば評価があがるから、言うことを聞いておこう」「この仕事は苦労の割に成果がでなさそうだから、そこそこにやっておこう」など、見返りを求めて行動する姿勢は、周囲にも気づかれてしまうものです。

 自分では上手に立ちまわっているつもりでも、どことなく嫌な雰囲気やオーラのようなものがにじみ出てくるからです。「あの人はいつも自分の仕事しかしない」「みんなが大変なときに、助けるような役回りはしない人」と思われ、次第に敬遠されるようになっていくでしょう。

 複雑かつ多様化する社会において、周囲と協調しながらうまくやっていくことは簡単ではありませんが、自分のことを最優先に考える身勝手な行動は、他人から排斥されるきっかけを生むため、避けたいものです。積極的な排除ではなくても、「話しかけてもらえなくなる」「責任ある仕事が回ってこない」など、少しずつコミュニケーションを図りにくくなるかもしれません。

 敬遠されるだけならまだいいほうかもしれません。「前回は私がやったので、今回は○○さんにお願いします」と名指しで仕事を任され、渋々引き受けたものの、普段周りが大変そうにしていても見て見ぬふりをしてきたために、誰も手を差し伸べてくれないかもしれません。自分が得をしたいがために周囲との関係をないがしろにした報いともいえますが、その恨みが深ければ深いほど、しっぺ返しで孤独に突き進んでいくことになるのです。

 利己心は物質的な満足感や、相対的に周囲より優位な立場に立つことを求めて働くものです。その欲は尽きることがなくエスカレートしますから、別の方法で満足感を得る努力が必要です。利己心からくる損得勘定を捨てることは容易ではなく、まったく違ったアプローチが必要だと思います。