ただの「好き」とは次元が違う
個人的で細かい欲望=「偏愛」

 ちょっと戸惑わせるほど定石を外れた事例を2つ並べましたが、他人が作った言葉や他人が決めた選択肢にとらわれず、自分の衝動に気づき育てていくプロセスについて考える上で、ダークホース・プロジェクトは確かに参考になりそうです。

 ローズとオーガスは、ダークホース・プロジェクトの成果を踏まえて、自分の“micro motives”にフォーカスを絞ることが大切だと指摘しています。彼らの書籍では「小さなモチベーション」と邦訳されているのですが、この記事では「偏愛」と訳しておきます。偏愛こそが、衝動(深い欲望)へとつながっていくのです。

 そもそも、「やる気」「意欲」「競争心」「モチベーション」などといった言葉を聞くと、どうにも抽象的なものを思い浮かべてしまいます。やる気ゲージみたいなものがあって、それが低いと仕事が手につかないし、家事や恋愛も面倒だ、みたいなイメージ。こういう欲望の捉え方は、やる気ゲージが今どれくらいかを問題にしているだけです。これは、刺激の強弱だけに注目している「強い欲望」の発想です。

「身体を動かすことと、美術館行くことが好き」というように、なだらかに好きなものを並べる語りは珍しくありませんが、こういう言葉にも同じ考えが隠れています。性質が違うかもしれない2つの「好き」が並列されていますよね。その人の意欲が向いている対象だけが話題になっていて、それらの好きに質的な違いがないという発想です。しかし「偏愛」の視点は、「好き」の細かなコンテクストの違い、質的な違いに注意を向けます。偏愛は、フラットに並べて語ることができるものではないのです。

 ローズとオーガスは、こうした抽象的で一元的な意欲や選好の捉え方を批判し、強さとは違う水準で欲望について考えています。2人が価値を置こうとしているのは、他人に移し替えられないほど「個人的」であり、文脈や対象を変えると成立しないくらい「細分化された」欲望です。そういう個人的で細かい欲望だからこそ、「偏愛」と呼ばれているわけですね。