「保守2大政党」を望む流れが
維新への過剰な期待を呼び起こしたが…

「維新上げ」が始まったのは、前回の衆院選(21年)後のことだ。野党第1党の立憲が衆院選で公示前議席を割り込んだ一方、第2党の維新は前々回(17年)衆院選の11議席から41議席へと議席を「4倍増」させた。途端に「立憲惨敗、維新躍進」の報道があふれ、「維新は立憲を抜き野党第1党に!」とあおる声も出始めた。

 だが、これは当初から相当無理筋な「印象操作」だった。維新の「4倍増」には、17年の11議席が「負け過ぎ」だったことが考慮されていない。このさらに一つ前、14年の衆院選で、維新は21年と同じ41議席を獲得していた。

 維新が17年衆院選で「負け過ぎた」最大の理由は、小池氏がこの選挙で立ち上げた新党「希望の党」だ。維新は希望の党と選挙区を「すみ分け」して東京で候補擁立を見送ったことなどを受け、この選挙で大きく議席を減らした。希望の党が消えた21年衆院選で、維新は14年当時の議席を「取り戻した」に過ぎない。

 それでも、ここ30年ほどずっと続いている、メディアや有識者らの「保守2大政党」を望む流れは、維新の躍進への過剰な期待を呼び起こした。半年後の22年参院選、その翌年の23年統一地方選までは、メディアの空気にも乗り、維新も一定の結果を出した。

 しかし、大阪の地域政党から始まった維新は、それ以外の地域における地方組織や地方議員などの「地力」が決定的に不足している。23年統一地方選では、いくつかの自治体で維新が初議席を得たが、このレベルで「将来の野党第1党」として自民党に対峙することはできない。政党とはそんなに簡単に育つものではないのだ。

 そうこうするうちに、メディアで散々「オワコン」を演出されていた立憲が、態勢を立て直した。

 党の「地力」の点では立憲もまだ心許ないが、少なくとも維新に比べれば、地方組織の整備などは進んでいる。やがて、地力に勝る立憲を中核とする野党勢力が、地方自治体の首長選などで勝ち始め、維新の存在は徐々にかすんでいった。

 そこへ自民党の裏金事件である。野党に明確な「自民批判勢力」としての位置づけが求められるようになり、維新のような「第三極」政党は、急速に立ち位置を失った。