ウォール・ストリート・ジャーナル、BBC、タイムズなど各紙で絶賛されているのが『THE UNIVERSE IN A BOX 箱の中の宇宙』(アンドリュー・ポンチェン著、竹内薫訳)だ。ダークマター、銀河の誕生、ブラックホール、マルチバース…。宇宙はあまりにも広大で、最新の理論や重力波望遠鏡による観察だけでは、そのすべてを見通すことはできない。そこに現れた救世主が「シミュレーション」だ。本書では、若き天才宇宙学者がビックバンから現在まで「ぶっとんだ宇宙の全体像」を提示する。「コンピュータシミュレーションで描かれる宇宙の詳細な歴史と科学者たちの奮闘。科学の魅力を伝える圧巻の一冊」野村泰紀(理論物理学者・UCバークレー教授)、「この世はシミュレーション?――コンピュータという箱の中に模擬宇宙を精密に創った研究者だからこそ語れる、生々しい最新宇宙観」橋本幸士(理論物理学者・京都大学教授)、「自称世界一のヲタク少年が語る全宇宙シミュレーション。綾なす銀河の網目から生命の起源までを司る、宇宙のダークな謎に迫るスリルあふれる物語」全卓樹(理論物理学者、『銀河の片隅で科学夜話』著者)と絶賛されている。本稿では、その内容の一部を特別に掲載する。
ヘッジファンドは理論物理学者に惚れ込んだ
アルゴリズム、モデル、シミュレーションのあいだの微妙な境界線を示す良い例が金融取引で、2008年のリーマン・ショックでは、物理学からの着想が大きな役割を演じた。
金融モデルの目的は、現実世界のあらゆる情報から、将来の株価の動きを予測することだ。
そうした予測を細部までおこなうことは不可能だが、2000年代初頭、ヘッジファンドは理論物理学者と、その情報にもとづいた将来を推測する能力に惚れ込んだ。
「クオンツ」と呼ばれる金融アナリストたちが、個別銘柄が時間とともにどのように価値を変えるかについて、いくつかの単純な仮定を用いて、長期的な市場の動きをシミュレーションした。
しかし、モデルやシミュレーションは現実を再現するものではないため、その根底をなす単純化された「前提条件」の域を出ない。
市場が動揺すると、個々のトレーダーはパニックに陥り、あらゆる判断を疑ってかかるようになる。こうした状況下では、株式がどのように動くかを予測する規則を見出すことは非常に難しく、賭けが見事にはずれてしまうこともある。
暗転する市場
慎重さを欠くファンドマネージャーは、モデルやシミュレーションの予言を盲信しすぎて、坂道を転げ落ちるように運命が変わってしまった。
早くも1960年代には、金融モデルを支える前提条件は、稀にではあるが起こりうる、破滅的な市場下落のリスクを過小評価していると、数学者たちは警告していた。
2000年代の賢明な金融家たちは、こうした不測の事態に備えて、リスクを回避し、金融モデル作成者たちの約束を懐疑的に受け止めた。
だが、金融投資業者たちの多くは、コンピューター予測のまばゆさに目を奪われ、その結果、顧客である投資家たちは、気が遠くなるような大金を失った。
ここでの教訓は、シミュレーションが役に立たないということではない。そこには微妙な「ニュアンス」があり、文字どおりに受け取るべきではない、ということなのだ。
シミュレーションを理解するためには、その制約を深く理解する必要がある。それは単純化という点であり、とてつもなく複雑な現実と仮想世界とを隔てている。
シミュレーションの不完全さをきちんと理解すればするほど、私たちはシミュレーションの本当の意味を理解できる。
2008年の金融大暴落をうけて、世界有数の2人のクオンツが「モデラーのヒポクラテスの誓い」を発表した。
「私は、自分が世界を作ったのではないこと、そして世界が私の方程式を満たすのではないことを忘れない……私は、自分のモデルを使う人々に、その正確さについて誤った安心感を与えない。私は、それを使うすべての人に、前提条件とミスが含まれていることを明らかにする」。
この格言は、宇宙シミュレーションにも適用されるべきだ。
宇宙をシミュレーションする際の金銭的リスクは、株式市場の賭けに費やされる数兆ドルに比べれば微々たるものだ。
それでも宇宙論の研究者は、シミュレーションの信頼できる部分と、そうでない部分をきちんと理解したいと考えている。
私たちは、新しい望遠鏡や研究所への賢い投資を導くことができる、正確な天地創造の物語を構築しようとしているのだ。
基礎物理学研究にあてられる資金は、賢明に使われ、新たな発見のチャンスを最大限に高めるべきだ。
シミュレーションと宇宙の実験室
これから紹介するシミュレーションには、空想的な要素がいくつかある。
まずは、暗黒物質(ダークマター)と暗黒エネルギー(ダークエネルギー)だ。
これらは地球では絶対に遭遇しないエキゾチックな物質であり、最も感度の高い望遠鏡でも見ることができないが、宇宙の歴史を理解するためには欠かせない。
ダークマターとダークエネルギーがなければ、シミュレーションで宇宙を理解することはできない。
このような物質を仮定するのは、とんでもないことであり、その結果、宇宙を理解するためのハードルが高くなる。
シミュレーションの働きを示し、その限界を認め、それでもなお、大局的な観点から、とんでもない結論を受け入れる理由を説明しなくてはならない。
だが、ダークマターとダークエネルギーの「存在」を受け入れるならば、実験では今のところ手つかずの、まったく新しい物理学の領域が拓ける。
科学者にとって、最前線での探究ほど刺激的なことはない。
私たちは、いつの日か、人類が自然の秘密を知り、理解する日が来るという希望に突き動かされている。
また、シミュレーションは、科学の最も基本的な前提である「すべてのことには理由があり、原因と結果の連鎖によって起こる」という点に関して、人類の知の辺境を探検する。
天気予報の観点からは、風、雲、雨、暑さ、寒さは単に現れては消えるのではなく、最終的に分散するまでに、何千キロメートルも移動する可能性のある、明確な気象システムとして存在する。
だから、今日の天気を正確に把握することは、明日や数日後の天気を予測する上できわめて重要なのだ。同じように、宇宙はそのときどきで好き勝手にふるまっているわけではなく、ドミノ倒しのような出来事の連鎖に従って進行している。
その連鎖は約138億年に及ぶ。
これは現在推定されている「時間そのもの」の年齢だが、始めに何が起きたのだろう?
最初のドミノを倒したのは何なのか?
シミュレーションを構築する場合、何がもろもろの出来事を引き起こしたのかについて、事実にもとづいた「推測」を含めざるをえない。
少なくとも、宇宙の誕生については、議論の余地がない部分もある。宇宙がその生涯を通じて膨張し続けていること、そしてその膨張が非常に極端で、かつては宇宙空間全体が微小であったことを示す、紛れもない証拠がある。
膨張はシミュレーションに簡単に組み込むことができるが、それだけでは宇宙の出発点を定義するには不充分だ。
(本原稿は、アンドリュー・ポンチェン著『THE UNIVERSE IN A BOX 箱の中の宇宙』〈竹内薫訳〉を編集、抜粋したものです)