土淵(つちぶち)村字火石(ひいし)の庄之助(しょうのすけ)の家では、一族そろって餅を食べていたところ、ふいに童女用の小櫛が落ちてきた。驚き見上げた家族のうち、分家の老人はこう証言している。

「髪を乱した少女の顔だけが、梁にくっついていて、じっと下を見つめていたんだ……」

 それは飢饉の年に飢え死にした、この家の下働きの少女ではないかというものもいる。

 同村の山口では、天明の飢饉の際に子殺しが行なわれたそうだ。その家の男児には盗み癖があり、飢饉に瀕した村ではたいへんな厄介ものとなっていた。困り果てた父親は男児を山に連れ出し、岩の上に寝かせた。そして斧をふるい、彼の頭に斬りつけたのだ。

「父(とと)はなにをする!」

 男児は飛び起き、そう叫んだ。しかし父親はさらに斧を高々と持ち上げて、「その訳はあの世で聞いてくれ」と息子の頭を打ち砕いたのだ。

 殺された男児の霊は、百年以上経った後もずっと、その家にとりついている。今でも時折、天井の梁のほうから「ととはなにをする」という哀しい声が聞こえるそうだ。

 栃内(とちない)の山下家には、これまた天明の飢饉の折、盗癖があるとして殺された男児がいたという。座敷のきつの中に入れ、かたく蓋をして蒸し殺したのである。この家で念仏講を行なっている最中、一同が「餓鬼の念仏なんまみだ」と唱えたところ、梁の上から子どもの声で「餓鬼の念仏なんまみだ」と返ってきたことがある。他にも客人がくると、ザシキワラシのような行動をして驚かしたりもするらしい。

POINT
・栄えた家が没落すると、ザシキワラシが去ったからだと噂された
・ザシキワラシの正体はその家の殺された子どもだという説もある
・ただその噂はいつも没落後に語られ、子殺しと繋がるのは近代以降