マニュアルやルールが制定される目的は、人を厳しく縛るためのものではなく、むしろ「正しいありようの中で、どこまでが許されるのか」を示すことにある。人々に安心と自由を与えるためのものだ。

 スポーツで言えば、ドーピングのルールとしての意義は分かりやすいだろう。協会としてルールを制定することで、選手は何を摂取することが問題ないのかが理解されることになる。選手は疑心暗鬼に食べ物を口に運ぶ必要がなくなり、安心することができ、その「アスリートとしての正しいあり方」の中で、自分なりの自由を謳歌することができる。

 工場の安全基準、製品の品質基準、アミューズメントのサービスマニュアル――安心して職務にあたれるよう、NGの線引きをする。かくして、ルールが定められることで組織のメンバーが守られることになる。その組織の構成員としての、正しさを獲得できるのだ。

 だからこそ、それを守り、その中で正しい規範を示そうとするメンバーを守るためにも、ルールを超越しようとする行為は罰せられる必要がある。特例が認められたら、もはや誰もそのルールを守らなくなる。組織内で、誠実に行動している人々を、守ることができなくなってしまう。

 競技団体で言えば、とりわけ、競技成績が良い選手ほど、規範を守ることがかたく求められることになる。競技能力があれば、ルールの逸脱も許される。「強ければ何をしてもよい」では、競技者としてのあるべき姿の一切も投げ捨てて、技能さえ磨けばよいのだということになってしまう。

 その時、当該選手と技術を競い、そして競り負けてしまった、誠実に競技者としての規範を守っている、他の選手のことを守れなくなる。競技から離れてしまう人も、現れてしまうだろう。

 組織を守るため、ではない。その組織に所属する人々を守るためにこそ、誠実に活動している人が馬鹿を見ることにならないためにこそ、ルールは守られなければならないのである。