「お魚の生ものはあまりお好きでなかったですが、焼いたホッケは食べていました。健さんの好みは肉でしたので、夕食にはしゃぶしゃぶやすき焼きなど、必ずお肉を出しました。事務所から肉を送らせていたこともありました。炊き立てのご飯に「ごはんですよ!」(編集部注/桃屋の海苔佃煮)や生卵をかけて食べるのもお好きでした」

 ハードな外ロケを乗り切るためにも精力をつけていたのだろう。健康管理にも人一倍、気を付けていた。

 朝食は決まって、東京の事務所から送らせたライ麦パンに健康ジュースだった。

「お弟子さんに、リンゴをジューサーにかけさせ、スプーン3杯の大豆の粉を入れたジュースを毎日飲んでいました」

 ストイックに過ごす高倉健も、温泉は唯一、心がほどける時間だった。

「撮影がお休みの日はいつも『大浴場の掃除が終わったら、声をかけて』と言うんです。部屋のお風呂には温泉を引いていないので、大浴場で温泉に入るのを楽しみにされていました。だからまっさらな大浴場で、お湯を張りたての1番風呂に入っていましたよ」

「ホテル竜飛」は、平成19(2007)年に改修したため、残念ながら高倉健が使った部屋や気に入っていた大浴場は残っていない。

 いまの「ホテル竜飛」の露天風呂に入ると、海鳴りと風鳴りが響きあう。

 津軽海峡の先に北海道が見えた。大きな貨物船が通り、悠々とカモメが飛んでいる。激しい潮の流れを目の当たりにすると、映画「海峡」の数々のシーンが呼び起こされた。

 40年の時を経て、杣谷社長が振り返る。

「青函トンネルの工事や映画の撮影は、津軽半島突端で暮らす私達には一足早いバブルでした。いまもよく思い出すんです。とりわけ健さんは、『たまに来るおじさんがずっといる』という、私にとっては近しい存在でした。出来事すべてが家宝です」

 私は杣谷社長が話してくれたさまざまなエピソードを振り返りながら、ひとりで温泉を愉しんでいた高倉健に想いを馳せた。

高倉 健(たかくら・けん)
本名:小田剛一
昭和6(1931)年2月16日~平成26(2014)年11月10日