撮影関係者の誰に対しても
サービス精神旺盛だった健さん

 こういったサービス精神の旺盛な高倉健の話題が矢継ぎ早に出てくる。

「健さんはお酒は飲まず、甘党でした。東京から、当時では珍しかったボックス型の高級アイスのレディーボーデンを取り寄せていました」

 その送られてきた箱のなかには缶詰もあり、杣谷さんは初めて見る果物だったそうだ。

「アイスとフルーツをお皿に盛り付けるとカラフルで美味しそうでした。多分、ブランデーをかけたんだと思いますが、アイスに火を点けて、しかも青い炎だったので、子供心に本当に驚きました」

 杣谷さんは目を丸くしながら詳細を話してくれたが、高倉健も楽しんでいたのだろう。過酷な自然環境の外ロケの合間に、少年と戯れる時間は、束の間の休息だったに違いない。

 杣谷さんは高倉健や他の出演者、スタッフと一緒に撮った写真を見せてくれた。

「この集合写真も、健さんが『記念になるから、みんなで撮ろうよ!』と、出演者やスタッフに声をかけていました」

 いまも残る多くの写真のなかに、小さな男の子が3輪車に乗る1枚がある。

「3輪車をこいでいるのは私です。エキストラで出演しているんですよ。撮影のために頭を刈りまして、撮影スタッフが用意した3輪車に乗り、スタッフから『その場で3回、回ったらOK出す』と言われ、その通りに演じた記憶があります」

分け隔てのないざっくばらんな人柄
女将との語らいを明日への活力に

 杣谷さんの母親で女将の杣谷茂子さんは、高倉健の主役としての立ち振る舞いをよく覚えている。

 高倉健の口癖は、「僕はセットされた所に出るだけ。ここにセットするまでが大変なんだよ。みんなが偉い。みんなが主役なんだよ」だったという。

 昭和56年の冬の撮影時は、大雪が降り、スタッフが除雪をする姿を見て、「健さんは総勢50人にもなるスタッフ全員に、ズボンの下に穿くキルティング素材のももひきを配っていました。ご自身の誕生日にはワインをスタッフ全員に1本ずつ配っていましたしね」。

 その気遣いはもちろん他の出演者に対しても同様だ。

「森繁久彌さんは、いつも5人の付き人を連れて来ては、3日間ほどの滞在で、まとめ撮りをしていました」