福沢諭吉の「やばい」エピソード
――少し話は変わりますが、先ほどお話しいただいた西郷隆盛との和平交渉の末、江戸城を無血開城したのが勝海舟ですね。
本郷 その通りです。また、勝海舟は「咸臨丸」という船のお偉いさんとして、日米修好通商条約の批准のために渡米したエピソードが有名です。しかし、彼はものすごく船酔いする体質だったので、航行の指揮が全くとれませんでした。
そんな彼の姿を見て、「勝海舟という男は船酔いばかりして、何の役にも立たなかった」と悪口を言ったのが福沢諭吉です。
――え? どういうことですか?
本郷 実は諭吉も、海舟と同じ船に乗っていたんです。そのとき、諭吉の方がはるかに身分は下でしたが、偉そうにしていた海舟がダウンしているのを見て笑っていたわけですね。
なお、諭吉自身は、アメリカでかわいい女の子と写真を撮って帰国しています。
――アメリカをエンジョイしたんですね。
本郷 そういうことです。
ちなみに、諭吉は慶応義塾大学をつくった偉い人ですが、子どものときからお酒を飲んでいました。さらに、それを見かねた友人から「お酒の飲みすぎはよくないよ」と注意されてからは、ヘビースモーカーに転向しています。「酒がダメならタバコだ」というわけです。
――なかなか豪快な人物だったんですね。
大隈重信が世論操作をしていた「ずるい方法」
――「大学の創設者」というつながりで、早稲田大学をつくった大隈重信についても少し教えてください。
本郷 大隈重信はかなり派手な暮らしぶりで、庶民的な生活とはほど遠かったのですが、国民からの人気は非常に高く、彼のお葬式には数え切れないほど多くの人が参列したそうです。
これにはカラクリがあります。実は大隈は、早稲田大学を卒業したジャーナリストたちに頼んで、「大隈重信先生はいい人だ」ということをアピールする新聞記事を意図的に流していたんです。
つまり、自分の好感度が上がるような印象操作をしていたわけですね。
――そういうずるい手を使って、イメージアップをしていたとは驚きでした。そういえば、新五千円札の肖像になった津田梅子も、大学をつくった人物ですね。
本郷 日本初の女子留学生の1人である津田梅子は、当時の女子教育を非常に問題視していました。というのも、学校で女の人が教わる内容は「男の人を尊重しましょう」とか「立派なお嫁さんになりましょう」といったことばかりだったからです。
――学校で習うことが、男女で違っていたんですか?
本郷 その通りです。だから、梅子は自らお金を投じて、女性たちが家庭のためだけでなく「社会のため」に貢献できる高等教育を受けられるように、津田塾大学をつくったわけです。
今でも津田塾大学は立派な大学として小平にありますが、その一角には梅子のお墓がちゃんと残っていますよ。
「パンツ」を思いつかなかった日本人
――明治維新の後、日本はどのような道を歩んだのでしょうか?
本郷 西洋の技術や文化をものすごく一生懸命勉強し、取り入れていきました。
面白いことに、日本人は「新しいものをゼロから創り出す」ことがあまり得意ではありません。たとえば、明治になるまでずっと、日本人はふんどしや腰巻を下着として身に着けていました。つまり、パンツというはき物を思いつかなかったんです。
今考えれば、ふんどしよりパンツの方がはくのが簡単なので、パンツぐらい発明してもいい気がしますが、そういうアイデアがなかったんですね。
――なるほど。そう考えると、確かに日本人は、全く新しいものを創るのが苦手なのかもしれないですね。
本郷 一方で、教わったことを吸収して、それを自分なりに活用することにかけてはピカイチです。実際、明治維新を経て、あっという間に西洋列強と同じ国家水準まで登りつめています。
しかし、同時に日本は、軍事力を使って領土を広げていくことを是とする「植民地主義」にも染まってしまいました。このイデオロギーを推し進めた結果、アメリカなどと太平洋戦争を戦うこととなり、夥しい死者を出して敗戦したわけです。
日本が同じような過ちを二度と繰り返さないためには、誰かの意見や考えを受け売りにすることなく、国民一人ひとりが「これからの日本はどうあるべきか?」ということを自分の頭でよく考えないといけないですね。
つづく
(本稿は、『東大教授がおしえる やばい日本史』特別イベントのダイジェスト記事です)
東京大学史料編纂所教授。東京都出身。東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ。大河ドラマ『平清盛』など、ドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わっている。おもな著書に『新・中世王権論』『日本史のツボ』(ともに文藝春秋)、『戦いの日本史』(KADOKAWA)、『戦国武将の明暗』(新潮社)など。監修を務めた『東大教授がおしえる やばい日本史』はシリーズ78万部。最新刊『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』も発売中。