「じゃあ、もう、ウームでよくない?」
そう語るのは、起業家・UUUM創業者である、鎌田和樹氏だ。2003年に19歳で光通信に入社。総務を経て、当時の最年少役員になる。その後、HIKAKIN氏との大きな出会いにより、29歳でUUUMを設立。「ユーチューバー」を国民的な職業に押し上げ、「個人がメディアになる」という社会を実現させる。2023年にUUUMを卒業後、初となる著書『名前のない仕事 ── UUUMで得た全知見』では、その壮絶な人生を語り、悩めるビジネスパーソンやリーダー層、学生に向けて、歯に衣着せぬアドバイスを説いている。この記事では、本書より一部を抜粋・編集し、これからの時代の「働く意味」について問いかける。(構成/ダイヤモンド社・種岡 健)

HIKAKINと一緒に考えた「UUUM」という会社名の由来とは?Photo: Adobe Stock

UUUM誕生の瞬間

 総務時代に叩き込まれた「何とかする力」が効いた瞬間の話です。

「ユーチューバーのマネジメント業務をしよう」

 そう決めてから、最初にやったことは、社名の変更でした。
 僕とHIKAKINともう1人の社員で、どんな名前にするかの会議を開きました。
 事前に、クラウドワークスなどを使って公募もしていました。

「次世代のクリエイターのユートピアだから『ネクストピア』はどうだろう?」

 など、そんなことを延々と話し合いました。
 HIKAKINから出た条件は、

「中性的な名前がいい」
「4文字くらいが覚えやすい」
「ドメインの『〇〇.com』が取得できる」

 というものでした。
 ハードルは高いですが、理に適っていますよね。

 そこで一瞬、決まりかけた社名は、「いいね株式会社」でした。何が正解かわからなくなっていましたね。
 その後、HIKAKINともう一人の社員は、「うーん、うーん……」と声に出して悩みはじめました。
 それを聞いていて、僕は、
「じゃあ、もう、ウームでよくない?」
 と言いました。

 なんか響きがいい気がして、早速、ドメインが取れるかを調べると、「uum」では取れなかった。
 でも、「u」をもう一つ増やして、「uuum」だと、「uuum.com」が取れることがわかったのです。
 それが、ウーム誕生の瞬間です。
 じつは最初は、小文字の「uuum」だったのです。

コタツが増えていった

 社名を変えるタイミングに、原宿の15万円の部屋を引っ越すことにしました。
 同じ原宿で、ネスカフェの裏あたりにある「原宿ヒルズ」という物件でした。
 今度は22坪で家賃30万円です。
 家賃が2倍になったので、「これから払っていけるかな……」と不安を覚えました。

 当時はクリエイターを集めてイベントをよく開いていました。
 LINEもそんなに広まっていなかったので、クリエイター同士での連絡も活発ではなかった。
 そして、クリエイターは、わりとコミュ障な人が多いんですよね。

 瀬戸弘司さんは、自分のことを「明るいひきこもり」と表現していましたが、そんなタイプの人が多かった。
 だから、まずは僕らが、「ウームの会」という、クリエイターたちが交流する場を作ったのです。

 原宿ヒルズでは、忘年会のときにコタツを5台レンタルしていました。
 そのコタツの数を、毎年増やしていくことを目標にしました。
 クリエイターや社員とコタツでお鍋を囲んだりして、「どんな企画をやるか」「これから何が流行るか」などを話し合っていました。本当に楽しい時間でした。

 順調に人が増えていき、コタツが20台以上になり、結局、その習慣はやめてしまったのですが。
 でも、まだUUUMが何者でもない時代に、クリエイターたちが身近で会社を支えてくれたことは間違いない。それを象徴する光景でした。

(本稿は、『名前のない仕事 ── UUUMで得た全知見』より一部を抜粋・編集したものです)

鎌田和樹(かまだ・かずき)

起業家、UUUM創業者
2003年、19歳で光通信に入社。総務を経て、店舗開発・運営など多岐にわたる分野で実績をあげ、当時の最年少役員になる。その後、孫泰蔵氏の薫陶を受け、起業を決意。ほどなくして、HIKAKINとの大きな出会いにより、2013年、29歳でUUUMを設立。「ユーチューバー」を国民的な職業に押し上げ、「個人がメディアになる」という社会を実現させる。2023年にUUUMを卒業。『名前のない仕事 ── UUUMで得た全知見』(ダイヤモンド社)が初の単著となる。