明治維新やその後の
功績による格上げや叙爵も
武家では一万石以上の家老も、華族としての品位維持をできる経済力があるならということで男爵にされた。たとえば、加賀藩では11家、岡山藩では6家というように認められている。
御三家や御三卿(田安・一橋・清水は伯爵)のような徳川一族は優遇されて不満を封じられたが、旗本は室町時代の名門の子孫である高家のように官位が高い者でも対象とされなかった。武力がないから、慰撫する価値がなかったのである。
このほか、有力社家や本願寺の大谷家も華族とされた。また、山名家や菊池家のような南朝関係者らの復権もあった。
一方、明治維新やその後の功績による勲功による本来の家格からの格上げや、叙爵も多かった。格上げについては、三条、岩倉、島津、毛利が公爵に、中山忠能(明治天皇の外祖父)、木戸、大久保が侯爵となった。また、東久世、黒田清隆、大木、寺島、山県、伊藤、井上、西郷従道、川村、山田、松方、大山、佐々木、広沢は最初から伯爵となった。
その後の功績などにより
爵位が格上げされるケースも
爵位に不満を唱えた人々のなかには、その内容がもっともな者や、その後の功績などにより、格上げを意味する「陞爵(しょうしゃく)」された者もいる。
たとえば、越前松平が侯爵にとか、伊藤博文が侯爵、ついで公爵に昇進したとかいった具合である。この措置は、昭和になっても続き、水戸徳川は「大日本史」編纂の功績で公爵になっているし、幣原喜重郎は外相としての功績で男爵になっている。
制度発足後に軍人、政治家、官僚、財界人や華族の分家などで叙爵した者もある。たとえば、井上毅、渋沢栄一、浜岡新は子爵、北里柴三郎、岩崎、三井、鴻池、住友らは男爵といった具合だ。
大隈重信や板垣退助は、制度発足時は野に下っていたので爵位がもらえなかったが、のちに政府の懐柔策の一環で伯爵になった(大隈は後に侯爵)。
徳川慶喜は子が徳川分家の資格で男爵になっていたが、東京に住み参内することを条件に、本人が徳川宗家とは別家の公爵となった。島津久光も長男が斉彬の養子として公爵だったが、自分も別家を立てて公爵(玉里家。その御曹司が佳子さまのお相手候補として話題になった)となった。
旧宮家の次男以下が侯爵や伯爵になったものもいて、賜姓華族という(拙著『系図でたどる日本の皇族』参照)。
日韓併合に際しては、皇帝は皇族に準じるとされたが、これは、国際的常識からしても、非常なる厚遇だった。また、76人の朝鮮人が侯爵以下の爵位を与えられ、朝鮮貴族と呼ばれた。台湾には叙爵された者はいないが、貴族院議員にはなっている。