爵位の基準をめぐり
大ブーイングも
いろんな経緯があったが、1884年に制度が発足したときには、だいたい、次のような扱いになったため、大ブーイングが起きた。
公家については、家柄で五摂家が公爵、太政大臣などにもなれる清華家が侯爵、大納言になれる以上の家が伯爵といったことを基本にした。
大名では島津、毛利、徳川宗家の三家が公爵、徳川御三家と「現米15万石以上」が侯爵、御三卿と現米5万石以上が伯爵、そして、ほかの大名は子爵だが、明治維新後に滑り込みで大名になった家は男爵だった。
ここで物議を醸したのは、江戸時代に普通に使われていた表高でなく、「現米」という実収入を基準にしたことであった。表高はだいたい江戸初期の検地で収穫高とされたものが基本的には幕末まで維持されていたので、江戸時代に新田開発が進んだところは実収との差が大きかった。
この結果、30万石以上でも津藩の藤堂氏は伯爵だが、21万石の秋田藩佐竹氏は侯爵だった。また、戊辰戦争で減封された後の石高だったので、25万石になっていた仙台藩伊達家は伯爵、会津藩松平家は斗南3万石扱いだったので子爵にとどまった。だが、ほかの藩には結果的にだが影響は出なかった。秋田の佐竹氏が官軍だったので、東北でただひとつの侯爵となったと信じている人が多いが、それは邪推にすぎない。
彦根藩は、桜田門の変で殺害されたのを病死と届けたのが文久の政変後にとがめられ、10万石減封されたため、伯爵となった。
また、琉球王家と対馬の宗氏は、対外関係への配慮でそれぞれ優遇されて、侯爵、伯爵とされた。ただ、この基準は公開されなかったので、不満が渦巻いた。