【老後】「人にどう思われるか」を気にしすぎた人の末路
世界的名著『存在と時間』を著したマルティン・ハイデガーの哲学をストーリー仕立てで解説した『あした死ぬ幸福の王子』が発売されます。ハイデガーが唱える「死の先駆的覚悟(死を自覚したとき、はじめて人は自分の人生を生きることができる)」に焦点をあて、私たちに「人生とは何か?」を問いかけます。なぜ幸せを実感できないのか、なぜ不安に襲われるのか、なぜ生きる意味を見いだせないのか。本連載は、同書から抜粋する形で、ハイデガー哲学のエッセンスを紹介するものです。
もし、あした死ぬとしたら、今までの人生に後悔はありませんか?
【あらすじ】
本書の舞台は中世ヨーロッパ。傲慢な王子は、ある日サソリに刺され、余命幾ばくかの身に。絶望した王子は死の恐怖に耐えられず、自ら命を絶とうとします。そこに謎の老人が現れ、こう告げます。
「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだ」
ハイデガー哲学を学んだ王子は、「残された時間」をどう過ごすのでしょうか?
【本編】
「自分の人生とは何だったのか」にどう答える?
「自分が今まで生きてきた時間、そして、これから生きるであろう時間、それらすべてを丸ごと人生だと捉えて、自分にはどんな人生の可能性があるのか、自分とは何なのか―それを問いかけるのは、人間だけではないだろうか? まあ、あまり人間と他の動物をはっきりわけるのが納得いかないなら、ある一定の知能を持つ生物の特徴だと考えてもよいだろう」
私は空を見上げながら、今の話を落ち着いて考えてみることにした。そもそも生物とは、外界にあるモノを認識し、それを利用して生きている―つまり、「目の前にあるモノは何であるか?」を常に問いかけ選択して生きているわけだが、ではその生物が高度に進化し、複雑な思考を身につけたとしたらどうなるか?
きっと最終的には、その問いかけを「自分自身」そして「人生全体」にも向けてしまうだろう。つまり、それまで生存本能や欲求に従い、「目の前のモノは何であるか?」を問いかけてきた生物が、あるとき、私(自我)の存在に気づき、ついには「私とは何であるか? 私が過ごしてきた時間、人生とは何であるか?」を問いかけるようになるということ。なるほど、成り行きとして十分に想像ができる。
「はい、大丈夫です。納得できました。むしろ必然のようにさえ感じます」
「あなたは何者ですか?」と聞かれたら?
「それは良かった。では結論を述べよう。『人間とはこういうものだ』と言える本質とは何か? それは―『人間とは自己の固有の存在可能性を問題とする存在である』すなわち『自分がどんな存在であるかを問いかける存在である』ということだ」
「いや、ちょっと待ってください。いえ、それが人間の本質だということを認めるのは良いのですが、でもそうであれば、ほとんどの人が本質に従って生きている―つまり『本来的に生きている』ことになるのではないでしょうか?」
「ほう、どうしてそう思うのかな?」
「だって、先ほど先生も言いましたが、たいていの人は『自分は町長だ』『自分は果物屋だ』と言っているわけですよね。これってつまり『自分がどんな存在かを問いかけている』からそう言っているわけで、結論として『ほとんどの人は本来的に生きている』ということになるのではないのですか?」
「いやいや、そうではない。そもそも彼らの言う『私は〇〇である』は、本当に真に問いかけて導き出した答えなのだろうか? たとえば、若者よ、おまえは何者だ? 何で『ある』と思う?」
「他者の視線」で人生を決めていませんか?
「私は……」
私は王子で『ある』―考えようとする間もなく、心にそう浮かんできた。
「どうかな? この問いに対し、今おまえは反射的に自分の立場や身分、もしくは単なる名前を思い浮かべたと思うが、それはおまえが真に問いかけて導き出した答えなのだろうか?」
「いえ……違いますね。先生の言う通り、私が思い浮かべたものは、自分で問いかけて決めたものではありませんでした。でも……だとすると一体これはどこからきて誰が決めたものなのでしょうか?」
「それはもちろん、お前以外の他者だ。ハイデガーはもう少し日常的な言葉遣いで『世間』という言い方をしているがな。端的に言えば、今お前が思い浮かべた答えは、『世間』が決めたものなのだ」
(本原稿は『あした死ぬ幸福の王子ーーストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』の第4章を一部抜粋・編集したものです)