東大卒のニート・しんめいP氏は東大を卒業後、大手企業、地方の教育事業、芸人など、さまざまな職業を経験したのちに引きこもりになった。ニート中、東洋哲学に衝撃を受けたしんめいP氏が、引きこもりの布団で考えた「悟り」について解説する。※本稿は、しんめいP(著者)、鎌田東二(監修)『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版)の一部を抜粋・編集したものです。
「本当の自分」=「無我」
ブッダ「『自分』とはただの妄想」
悟った、ということは、「本当の自分」の答えが見つかったということである。いったい、どんなものなのか?
その答えは「無我」だった。
自分とか、ない。
なかったんだってさ。
いやいや、ないって?ここにあるやん?どういうこと?
ひとつたとえ話をしよう。ぼくは家がゴミ屋敷なので、すぐモノがなくなる。
ある日、どうしてもサッカーの日本代表戦をみたくて、テレビのリモコンを部屋中探したのだが、見つからない。2時間探してもみつからず、試合が終わってしまった。悔しかった。
しかし、翌日気づいた。おれ、そもそもテレビ持ってなかった。ホラーである。仕事がきつくて頭がおかしくなってた。探していたリモコンは、そもそも存在しなかった。
「ない」ものを探すことは、完全にムダで、おそろしい苦しみだった。
「自分」がない、のだとしたら、「自分探し」はそりゃ苦しいはずである。
「無我」とはどういうことか。いまぼくが、「自分」だとおもってるものは一体なんなのか?
ブッダはこういった。
「自分」とはただの「妄想」。ほんとうは、この世界は、ぜんぶつながっている。よく観察すればわかる。
ほんまかいな。「妄想」はいいすぎやろ。