「みんな日本語が理解できる」の
前提が崩れている

 ところで、現在の日本の国語教育で重視されているのは、どちらかというと文法などの基礎的な国語力の育成より、心情読解(「この時の太郎くんの気持ちを答えなさい」)のような文学的な力の育成です。

 おそらくその背景にあるのは、現在の日本が「識字率ほぼ100パーセント」と言われるように「日本人なら、わざわざ日本語を教わらなくても読み書きができるのは当然のこと」という考え方です。

 日本人は誰でも本や新聞は問題なく読めて、一般的な文章を苦労せずに書けるはずだし、その程度のレベルまでは家庭での教育で十分に到達できるという前提で国語教育が行われているのです。

 一方、移民が多いアメリカでは実は昔から識字率が低く、合衆国教育省教育統計センターの調査によると、いわゆる普通の読み書きができない人(機能的非識字)が14パーセントもいるといいます。

 意外に思われるかもしれませんが、この14パーセントの人たちは、日常会話は問題なくできています。でも、この人たちは新聞に書かれている内容はほとんど理解できませんし、自分の考えていることをきちんと書くことができません。

 そしてアメリカでは、このような人たちは収入の低い職業にしか就けない状態にあります。英語を聞ける、話せる程度では職業選択の幅は狭く、希望する仕事には就けないのです。

 きちんとした英語を読み書きできて話せる能力、そして基礎的な学力や専門知識がなければ、収入の高い職業や知的レベルの高い職業に就くことはほぼ不可能です。

 そのため、アメリカにおける母国語教育は、論理的な文章や説明文がしっかり読み書きできることが基本とされています。

 最低限、必要な文法を基礎からしっかり教え、心情読解の能力を追求する方向ではなく、定型的なレポートが書けるようにすることが国語教育の基本になっています。