マスコミ報道にはこういう「正義の暴走」がつきものだ。そこで大切なのは批判されている当事者からも話を聞くことだ。筆者が「反社会的団体」「壺カルト」などとボロカスに叩かれている旧統一教会の現役信者たちに取材を続けるのも、それが理由だ。
週刊誌記者時代、文春の「疑惑の銃弾」事件班にいた先輩にお世話になった。ご本人曰く、文春編集部に寄せられた三浦さんに関するタレコミ電話を最初に取ったのは自分だ、という。
その先輩記者に三浦さんとの対談企画を提案したことがある。三浦さんの方は大喜びで、「もう互いに喧嘩するとかではなく、なんでああいう報道になったとか聞いてみたいです」と子どものように目を輝かせていた。
しかし、先輩記者側から断られてしまった。「あいつは嘘つきで話なんてしてもしょうがない。お前もあいつの口車にのって殺されないように気をつけろ」というのが理由だった。それを伝えたとき、「しょうがないですね」と寂しそうな顔をしていた三浦さんの顔が今でも忘れられない。
性加害を憎む人たちが、松本さんに憎悪を抱く気持ちもよくわかる。
しかし、これはあくまで週刊誌が報じた「疑惑」なのだ。物的証拠もなく、「疑惑の人」本人からの釈明も聞いていないこの段階で「犯罪者」扱いをして世論が裁きを下す、というのは、さすがに正義の暴走が過ぎる。被害者の訴えは尊重すべきだが、だからといって週刊誌記事だけで、袋叩きにされて名誉も仕事も奪われるような社会は、どう考えても健全ではない。
おそらく三浦さんが生きていたら、間違いなくそのような主張をして、松本さんの擁護にまわっていたのではないだろうか。
(ノンフィクションライター 窪田順生)